あれはあいつの自己責任だったんじゃないか。
違う。そんなわけがない。それでもこの有様を見てみろ。何を思ってこんなところに住んでるんだ。
乾いた血痕が歩道に一メートルもこびりつき、その錆色を背景に割れた瓶やおんぼろ十段変速自転車のねじれた骨組みが転がっている。何もかもがでかい。周囲の構造物はどれもごつごつしていて、その硬さ、肉眼で見える存在感には怖気を催す。俺は血痕を見つめ、目に見えない複雑性の徴候を探す。馴染みのオーダーまで飛び込んで内部を見たかった。死んだ赤血球、ヘモグロビン分子、心安らぐ量子の不確定性に包まれて踊るひとつひとつの原子の粒を。
そんなことは叶わない。血痕はなんの変哲もない茶色い染みで、わかることと言えば、それがかつては自分のような誰かさんの一部だったことだけだ。
あいつの返事はない。かれこれ五分はブザーを鳴らし続けている。
見える範囲には誰もおらず、俺は限られた猶予時間に独りきりだった。獲物たちは身を隠していたし、怪物どもはまだ姿を見せていない。だが、じきにやってくるはずだ。ダーウィンの代理人はいつだって、非適応者を狩ろうと手ぐすね引いて待ち構えている。
もう一度ブザーを押す。「ジャン、キースだ」なぜ答えない。答えられないのか、誰か来ているのか、それとも……。
独りにしてほしいだけなのかもしれない。電話でもそう言ってたじゃないか。
ではなぜ俺はここにいるのか。あいつを信じなかったからじゃない。無事を案じているわけでもない。言うなれば、手続きの問題だ。親友がレイプされたら、支えになってやるものだろう。こんな時代だろうと、それはルールだ。そして、どんな実用的な定義に照らしても、ジャネットは俺の友達だ。
どこか遠くでガラスが割れる。
「ジャン――」
今すぐここを去れば手遅れになる前に帰りつける。日没までは最低でも二〇分はある。どうせ、莫迦げた思いつきでしかないんだから。
ゲートに背を向けたとき、背後でカチリと音がした。振り返ると、ブザーの横に緑のライトが灯っている。格子にそっと手を伸ばし、ほんのわずかな接触で引っ込める。もう一度、今度はもっと長く。感電はない。門が内側に開く。
スピーカーは沈黙したままだ。
「ジャンか」俺は建物に向かって言う。
少しして返事があった。「上がって、キース。き――来てくれてありがとう……」
五階の部屋に俺が入ると、ジャネットはドアを施錠した。俺が通り過ぎるまでジャネットは壁に寄りかかっていた。
廊下を進む俺に続く足音は強張り、足を引きずっている。リビングに入るとジャネットは目を合わせずに俺を追い越し、冷蔵庫へ向かう。「何か飲む?」
「品揃えは」
「あんまり。トラックがまたハイジャックされたから、乳製品はなし。ビールならあったんだけどね」声は力強く活き活きとしてさえいるが、足取りは死後硬直ですっかり固まっているかのようで、動くたびに痛そうだ。
部屋の照明は薄暗い。オレンジ色のシェードがついたランプが隅にひとつ、音量を絞ったテレビが一台。ジャネットが冷蔵庫を開くと、青みがかった光が零れ出て顔の痣を照らす。片目は腫れて果肉状になっている。
冷蔵庫が閉じ、顔が慈悲深い蝕に沈む。ジャネットが少しずつ立ち上がり、ボトルを手に振り返る。俺は身体にふれないよう注意して、何も言わずにそれを受け取る。
「こなくてもよかったのに」とジャネット。「こっちは元気にやってるよ」
肩をすくめる。「なんとなくさ、困ってないかなと思って」
腫れた顔が微笑む。笑うのすら苦しそうだ。「ありがと。でも、警察署からの帰り道で色々買ったから」
「ジャネット、ごめん」他にどんな言いようがある。
「あなたのせいじゃない。私の責任」
違うと言うべきだ。違うと言ってやりたい。
「私の責任だよ」俺は口に出していないのに、ジャネットが強調する。「予想はついたはず。単純なシナリオ、予測可能な結果。迂闊だったよ」
「なあ、ジャン、なんでまだこんなとこに住んでるんだ」非難するような声になった。
ジャネットが窓の向こうを見やる。もう東部の炎が見えるほど日が暮れていた。
「昔住んでたの」と思い出させるように言う。「下衆どもに追い出されてやるつもりはない」
昔。俺はジャネットの視線を追い、歩道に残る小さな黒い染みを思い描く。以前はいくつもの家族がここで暮らしていた。今は四月。この陽気だ、子どもたちがいたら外で遊んでいたことだろう。今もどこかで遊んでいるのだと考える人もいる。この捻じれた世界と直交するどこか、確率波が崩壊してもっと平和な現実となったどこかで。そう信じてみたかった。どこか別の時間線では子どもたちがすぐ外で遊び回っていると思えば、少しは慰めになるだろう。
だがそんな世界は、仮に存在するとしても、とっくの昔にこの世界から分岐してしまった。三年、あるいは四年前に……。
「あっという間だったな」と呟きが漏れる。
「折り目カタストロフだもん」ジャネットがぼんやりと窓に向けて話す。「変化は段階的じゃないんだよ、キース、忘れっぽいんだから。物事はゆっくりとブレイクポイントまで進んで、ビシッ。次の平衡状態に至る。崖から落ちるみたいにね」
ジャネットはこんなふうに世界を見ている。現実ではなく、位相空間の中の一軌道として。感覚が収集するデータは俺と同じなのに、見ているものはまるで異質なんだ……。
「どんな崖だ」と俺は訊く。「どんなブレイクポイントなんだ。何が壊れるんだ?」
「へえ、噂を信じてないんだね」
噂は山ほどある。永続的な成長に基づく経済の必然的崩壊に、人は完全な結果論で不平を漏らす。あるいはぞっとするほどの成功を収めたコンピュータウイルスを、世界中に広まって一晩で世界経済を停滞させた数行のコードを責める。みんな自分のせいじゃないと言っている。
「二〇年前なら下水道の鰐のせいにしてたんだろうさ」
ジャネットが口を開こうとするが、声は痛々しい大きな咳となって弾けた。口を手の甲で拭い、顔をしかめる。「えっとね、そういうのがいいなら、いつだって六チャンネル的な解釈はあるよ」そう言ってテレビを指さす。
俺は問うようにジャネットを見る。
「再臨。十字架刑からそろそろ二〇〇〇年でしょ」
俺は首を振る。「ありえなさでは他の与太話とどっこいどっこいだな」
「かもね」
お互いに気まずさが広がる。
「さて、じゃあ」俺は沈黙を破り、帰ろうと踵を返す。「また明日顔を見に寄るよ――」
ジャネットがこちらを向く。「冗談でしょ、ボス。今夜はどこにも行けないってわかってるくせに。グランヴィルにすら辿り着けないよ」
反論しようと口を開くと、先手を打たれた。「毎朝八時頃にバスが通るの、フラーレン装甲の新しい改造車が。まず安全だよ、二時間遅刻してもよければだけどさ」
不意の理解に打たれたように、ジャネットが一瞬眉をひそめる。
「でも、私は何日か家で仕事しようかな」と言い添える。「差し支えなければ」
「莫迦言うな。しばらく休め。ゆっくりするんだ」
「実は、あまりゆっくりする気になれなくて」
「でも――」
ジャネットは無理をしてまた笑顔を見せた。「気持ちは嬉しいけど、ただ座ってぼんやりしてたら……気が狂っちゃうよ。仕事がしたい。しなきゃいけないの」
「ジャン――」
「どうってことないよ。明日はほんの一、二分だけログオンする。バグが入り込む前に必要なものをダウンロードできるはずだから、その後は一日作業に当たる。それでいいでしょ」
「わかったよ」当然ながらほっとした。それを恥ずかしく思うだけの礼儀はわきまえている。
「さて」ジャネットは木製の踏み台を手に廊下のクローゼットへ向かう。「カウチを作るね」
「なあ、そんなに気を遣うなって。ちょっと横になってろよ、飯を作るからさ」
「私はいい。お腹減ってないし」
「そうか、わかった」はあ。他に何をすべきだろうか。「誰かに連絡するか。家族とか――」
「いい。もう充分だよ、キース」声からかすかに警告がにじむ。「とにかく、ありがとね」
そっとしておこう。俺たちがこんなに近しい理由がこれだ。関心を共有しているからではなく、科学的発見に対する共通の情熱に囚われているからでもなく、ましてや俺がジャネットを論文の上席著者にすることがあるからでもない。ふたりとも相手に介入したり詮索したり、理解しようと試みたりしないからだ。受け容れられる限度については暗黙の了解がある。お互いに何も打ち明けないからこそ、完璧な信頼があるんだ。
現実世界に下りていたとき、あいつの名前が聞こえてきた。
こういうことはたまにある。他の人間が暮らす巨大で不細工な宇宙から音が滴り落ちてくることは。普段は耳に入れないようにできる。今回は違った。音が多すぎたし、みんなジャネットのことを話している。
仕事を続けよう。一個のニューロンからきれいに切除されたリン脂質が、結晶質の巨獣のように重々しく視野を横切る。しかし外界の音は黙ろうとせず、俺を引きずり上げようとする。音を閉め出して周囲の分子に集中しようとしたが、うまくいかない。イオンが遠のいて膜になり、膜が細胞全体になって、物理は化学に、化学は肉眼で見える純然たる形態学に変わる。
顕微鏡は画像を保持しているが、もはや俺はその外にいる。没入機器を切り、機械でいっぱいの部屋と、半ば解剖された有尾類の脊髄穿刺回路を前にまばたきをする。
談話室はこの研究室から廊下を少し進んだところにある。そこで連中はレイプを話題にし、ジャネットの不幸が物珍しく風変わりな事件だったかのように話している。他人の性的暴行の噂を古の戦物語のように語り合い、同情と憤慨の呪文を競わんとする。
騒ぐなんて理解できない。ジャネットはありふれた確率の犠牲者だ。犯罪の波と量子の波には共通点が多い。実現しなかった百万の世界でジャネットは無傷で逃げられただろう。また別の百万の世界では殺されていただろう。しかし俺たちが観測したのはこの世界だ。昨日はジャネットが残忍な仕打ちを受けたが、今日は別の誰かが同じ目に遭うかもしれない。
なぜあいつらはあんなふうにしゃべり続けているんだ。一日中ああして話していれば、あんなことが起こらない宇宙に辿り着けるとでも思っているのか。
なぜ、ただ放っておくことができないんだ。
「全っ然収束しない!」リビングから叫び声が届く。今日も電気はついていない。どたばたと廊下を駆けてくるジャネットの狂騒的なシルエットが、遠くの火事の反射光に後ろから照らされている。「特異なヘッセ行列って出るの! キアズマのマップに五時間取っ組んでも統計値すら取れなくて、しかも停電しちゃった!」
手にプリントを押しつけられる。闇の中だとぼやけた影にしか見えない。「懐中電灯は?」
「電池切れ。ベタすぎだね。ちょっと待って」俺は背中を追ってリビングに入る。ジャネットがコーナーキャビネットの前に跪き、中を引っ掻き回す。雑多な小物が床に弾んで転がり、苛立ちを抑えているのが伝わってくる。
限界を超えたのか、怪我をした腕が硬直する。ジャネットが大声でわめく。
俺は後ろから近づく。「なあ――」
ジャネットが片手を背後に差し出して掌を広げ、ふたりの間にスペースをあける。「平気だから」と振り返りもせずに言う。
俺は動きを待つ。
しばらくしてジャネットがゆっくりと立ち上がる。掌で光が揺らめく。コーヒーテーブルにキャンドルが置かれた。光は頼りないが、そばで読書くらいはできる。
「見てほしいところがあって」そう言ってプリントに手を伸ばす。
しかし俺はもう見抜いていた。「変数がふたつ、交絡してるんだよ」
ジャネットが手を止める。「どこ」
「交互作用項。これは活動電位とカルシウム濃度の線形変換だ」
ジャネットが俺の手から紙を取り、さっと点検する。「もうっ。それだ」まるで俺が見た瞬間に変化したと言わんばかりに数字を凝視する。「莫迦すぎるミスだね」
気まずい沈黙がつかのま漂う。ジャネットがプリントをぐしゃぐしゃに丸めて床に放る。
「莫迦にも程がある!」
こちらに背を向け、窓の外を睨む。
俺は間抜けのように突っ立ったまま、どうしたらいいか考える。
と、唐突にアパートが息を吹き返す。リビングの照明が遙か遠くの怠慢な発電機によって復活させられ、チカチカと瞬いてから安定する。部屋の隅のテレビが粒子の粗い光とかすかで曖昧な音声を発する。気を逸らしてくれたことに感謝しつつ、俺はテレビに向き直る。
画面に映るジャネットほどの年齢の女性はどことなく虚ろで、そのシェルショックを受けた顔つきは近頃どこでも見られるものだ。女性の手首に金属の輝きを見たと思った瞬間、景色が変わる。映し出された華奢な赤子の死体はねじれており、指が過剰についている。鼻梁の上の目蓋がない第三の目は、白く濁った黒大理石が塑像用粘土に埋め込まれているかのようだ。
「うーん、転写エラーね」
ジャネットはテレビを眺めている。俺の胃の緊張は少し和らいだ。今月の幼児殺害統計が天気予報のように画面を流れてゆく。
「多指症かつ松果眼。昔はランダムな転写エラーをこんなに見ることもなかったのに」
何が言いたいのかよくわからない。先天性異常は今に始まったことじゃない。世界の崩壊が始まってからこっち、症例は増加の一途を辿っている。時折、一部のネットワークがうんざりするほど変わり映えのしない繋がりを見出し、全てを水道中の放射性物質や化学物質のせいにして、ローマ帝国の崩壊との不吉な類似点を引き出す。
とりあえず、ジャネットがしゃべるきっかけにはなった。
「きっと異常は他の情報システムにも起こってるはず」ジャネットが呟く。「遺伝子だけじゃなくて。例えばネットのウイルス。近頃は二分もログオンしてたらファイルに卵を産みつけられちゃうでしょ。同じだよ、間違いない」
引きつった笑いをこらえられない。ジャネットがこちらを見て首を傾げる。「ごめん」と俺は言う。「なんていうか――絶対に諦めないんだな、って思ってさ。どこかにパターンを見いだせないまま一日を過ごしたら、狂っちゃうんじゃないか」
そして俺は不意に理解する。どうしてここに住んでいるのか、なぜ俺たちと一緒に大学に身を潜めようとしないのか。ジャネットは敵地に乗り込んだ伝道者なのだ。カオスに逆らい、信仰を高らかに宣言しようとする。こんな状況にあってもジャネットは言う。ここにはルールがあり、宇宙は理解することができる。きっとおとなしくなるはずだ、と。
ジャネットの生涯は秩序の探求そのものだ。レイプのようにランダムな事象がその行く手を阻むことはできない。暴力なんて雑音でしかない。ジャネットが追い求めているのは信号だ。今このときも、ジャネットは信号を追い求めている。
これは良い兆しだと、俺には思える。
信号が津波のようにニューロンを突き進む。経路上のイオンは俄かに直立不動となる。山脈が震えて平らになるように導管が形成され、信号がそこへ流れ込む。踊る電子が視神経を伝わり、一ミリメートルという果てしない距離から原始的な両生類の脳を照らす。
電光をその源まで遡る。網膜上の入り組んだ回路の中へ。単一光子の薄れゆくエコーへと。ひとつの量子的現象が現実世界からこの機械の中に到達する。不確実性が受肉する。
俺がその現象を起こしたのだ、この研究室で。ただ見ることによって。森で光子が放出されても見る者がいなければ、それは存在しない。
これが世界の仕組みだ。なんであろうと誰かがそれを見るまでは現実じゃない。自らの身体を構成する素粒子さえ確率波としてのみ存在する。量子レベルの意識的な観測行為によって確率波は崩壊し、確固たる何かと化す。宇宙はその根底において非現実的であり、果てしなくどこまでも仮説的な虚無であって、誰かが一瞥を向けた少数の点に限り、混合状態は凝固する。
議論は無駄だ。アインシュタインが挑み、ボームが挑み、例の猫嫌いのシュレディンガーも挑んだ。だが、人間の脳が進化したのは原子間空間に対処するためじゃなかった。数字には抗えない。難解な量子数学の世紀にあっては、どんな常識も頼りにならない。
受け容れられない人は未だに多い。何もかも現実ではないという事実を恐れるあまり、何もかもが現実なのだと言い張っている。この世界と同等にリアルな並行世界に我々は囲まれているのだと。我々が分離主義者戦争に勝利し、ヒューストン大火が起こらなかった世界、どこまでも慰めになる代替現実のスモーガスボードに。下らない話だが、選択肢は限られている。並行世界というお決まりのギャグは非在に対する唯一整合性のある代替案であり、非在は人々を震え上がらせるのだから。
非在は俺に力を与えてくれる。
俺はただ見るだけで現実を形作ることができる。誰だってそうだ。あるいは目を背けるだけでプライバシーを尊重し、観測されぬままにして分化全能性を与えられる。そう考えると少し眩暈がする。自分が大きく遅れを取っていることを、導いてくれるジャネットの手をどんなに必要としているかを、あと少しで忘れそうになる。そんなことはこの現実世界では問題になるわけがないからだ。観測されない限りは取り返しのつかないものなんてないんだ。
最初の一回でブザーに応答があった。今日のエレベーターは動きがおかしい。半分開いては閉じ、また開く。しゃべりたがりの口みたいだ。階段で上がることにする。
ノックしようと手を上げると同時にドアが開く。ジャネットはじっと立ち尽くしている。
「あいつがまた来てた」
そんな。いくらこんなご時世でも、確率は極々――
「すぐそこにいた。またやってた」声にはまったく感情がこもっていない。ジャネットはドアを施錠し、先に立って薄暗い廊下を進む。
「入ってきたのか? どうやって? どこから――」
蒼褪めた光がリビングに差し込んでいる。俺たちは壁に突き当たり、窓の方へ向かう。俺はカーテンの端から荒廃した通りを見下ろす。
ジャネットが外を指さす。「すぐそこにいて、またやってた、またやってたの――」
他の誰かを、ということだ。
なんてこった。
「莫迦だよ」ジャネットの指が擦り切れたカーテンを掴み、握り締め、緩める。「あの子、独りであそこにいた。莫迦な女。予想できたはずだよ」
「いつだ」
「わからない。二時間くらい前かな」
「誰かが――」と俺は訊く。きみが――なんて言えるわけがないからだ。
「ううん。他には誰も見もしなかったと思う」カーテンを手放す。「なんだかんだあの子は軽く済んだよ。歩いていったから」
電話回線は通じていたか、とは訊かない。助けようとしたのか、叫んだのか、物を投げたのか、後でその女性を中に入れてやったのかを、俺は訊かない。ジャネットは莫迦ではない。
彼方の蜃気楼が深まりゆく黄昏に煌めく。大学だ。別のオアシスはもう少し近く、フォールス・クリークの先にあり、首を伸ばせば第三のオアシスがわずかに見える。他は全て灰色か黒か瞬くオレンジだった。
壊疽に覆われた身体だ。わずかに残った組織だけが生き永らえている。
「確かに同じ奴だったか」
「そんなのどうだっていいよ!」ジャネットが金切り声を上げ、ハッとなって顔を背ける。脇で拳が握り締められている。
しばらくしてジャネットがこちらに向き直る。
「同じ奴だった」硬い声で言う。「確かだよ」
どうすべきなのか、さっぱりわからない。
でも、どう感じたらいいのかはわかる。ジャネットに、ランダムに残忍な仕打ちを受けた者に心を痛めるべきだ。ここまでは自動的で、考えるまでもないはずだった。不意に、ジャネットの顔が見えるように、本当に見えるようになる。メルトダウンの瀬戸際にある抑制の脆い仮面、その遙か奥でかろうじて自制している顔が。ジャネットのこんな姿は、事件当日でさえ見たことがなかった。気づいていなかっただけかもしれない。俺は自分の心が動き、愛なり同情なり憐れみなりがあふれるのを待つ。ジャネットは俺に何かを求めている。ジャネットは友達だ。少なくとも俺はそう思っている。俺は自分を嘘つきにしないための何かをなんでもいいから探し求める。精一杯深く潜っても、自分自身の熱烈な好奇心しか見つからない。
「何かしてほしいことはないか」と訊く。自分の声なのにほとんど耳に入らない。
ジャネットの顔つきがどことなく変わる。「何も。何もないよ、キース。これは私が自分で乗り越えなきゃいけないことでしょ」
俺は身体を左右に揺すりながら、ジャネットが本音を言っているのか判断しようとする。
「ここに何日か泊まってもいい」俺はようやくそう言う。「そっちがよければ」
「そう」窓の外を見るジャネットの顔は、今まで以上に遠い。「好きにしたら」
「火星が失われた!」俺の両肩を掴んで、男が嘆く。
知った顔だ。廊下の先、三つほど隣の部屋にいる。でも名前が思い出せない。確か……なんだっけ、クリス、クリス・なんとか……フレッチャーだ。クリス・フレッチャー。
「バイキング計画のデータさ」とフレッチャー。「七〇年代からやってる奴だよ。NASAは言ったんだぜ、データはアーカイヴしてる、問題なく使えるはずだ、って。僕の論文は丸ごとあのデータを基に計画を立てていたのに!」
「それがなくなったのか」そんなところだろうと思った。近頃はどこもかしこも記録的な数のデータファイルが破損しているのだ。
「いや、ファイルの在処は正確にわかってる。いつでも好きなときに行って拾ってこられる」フレッチャーが苦々しげに言う。
「じゃあ何が――」
「データはこんなにでっかい磁気ディスクに収められているんだ」
「磁気?」
「――もちろん磁気メディアなんて廃れて何十年にもなるし、しかもNASAは設備更新のときにバイキング計画のデータをなぜか見落としたんだよ」壁を打ち、ヒステリックにくつくつと笑う。「だから誰にもアクセスできないデータを抱えてるってわけ。使える旧式のコンピュータなんて、大陸のどこを探したって一台も見つからないかもしれない」
このことを後でジャネットに話した。首を振って「それは残念」とか「酷いことが起こるもんだね」とか言って、哀悼の意を表するんじゃないかと思って。しかしジャネットは窓から目を離しもしない。ただ頷いて言う。「情報の喪失だね。私に起こったことと同じだ」
俺は外を見やる。当然、星は見えない。雲の底に映じる陰気な琥珀色だけがある。
「レイプされたことを思い出せないの」とジャネット。「可笑しいよね、頭にこびりつきそうなものでしょ。起きたことは知ってるし、前後関係と後の影響も思い出せるし、物語を組み立てることもできる。でも私は失ってしまった、実際に起きた……出来事を……」
背後からジャネットの頬の曲線が見え、かすかに微笑んでいることがわかる。長いこと見ていなかった笑顔だ。まるで数年ぶりのようにも思える。
「地球が太陽の周りを公転してることを証明できる?」とジャネットが問う。「その反対じゃないって証明できるかな」
「いきなりなんだよ」俺は慎重な軌道を描いてジャネットの左側へ回る。視界に入ってきた顔は今やなめらかで傷痕もなく、仮面のようだ。
「できないでしょ。昔はできたのかもしれなくても。消去されたんだよ。それか単に喪失したんだろうね。私たちはみんな、たくさんのことを忘れていくんだ……」
ジャネットはとても落ち着いている。こんなに穏やかなのは初めて見た。怖いくらいだ。
「ねえ、きっとそのうちに、私たちは学ぶ端から忘れるようになるよ」とジャネットが言う。「きっと昔からそういうものだったんだね」
「どうしてそう思うんだ」俺は意識して声を平静に保つ。
「何もかもを記憶することはできないよね、充分な余地がないから。新しいものを取り込むには古いものを上書きしなきゃ」
「冗談きついぜ、ジャン」と軽い口調で言ってみる。「俺たちの脳はディスク容量を使い果たしつつあるってことかよ」
「当たり前でしょ。私たちは有限なんだから」
クソッ、ジャネットは本気だ。
「有限とは限らないだろ。脳の大部分が何をしてるのかもまだわかってないのに」
「何もしてないのかもしれないよ。DNAと一緒で、ほとんどジャンクデータなのかも。あれがわかったときのことは憶えてるでしょ――」
「ああ」何年も忘れようとしてきたから、あの発見については聞きたくもない。発見されたのは、ほとんど脳組織がないのに至って健康な人間だ。俺たちに混じって社会生活を送っていた彼らは、髄液が満ちた頭で、脳があるべき場所に張られた神経細胞の薄い裏地でやりくりしていたのだ。長じてエンジニアや教師になった者もいたが、むしろ植物状態になっていたはずだということが後に判明した。
答えはひとつたりと見つからなかった。研究者たちは調べに調べたはずだ。以前、何やら進展があったと耳にしてはいたが――
情報の喪失、とジャンは言う。限りあるディスク容量。ジャンはなおも俺に微笑みかけていて、その目からはまばゆい理解の光があふれている。だがその視座を理解した今も、何に微笑んでいるのかわからない。俺はふたつの球体が広がるのを思い描く。球の中に球があり、内側の方が膨らんでゆく。学ぶほどに失うものがあり、俺自身の核が内部から蝕まれて消える。基礎という基礎が溶けていく。地球が太陽を周回していると、どうしたらわかる?
俺の人生は、大部分が信仰の告白なのだ。
安全圏から半ブロック離れた場所で、男が二階の窓から飛びかかってきた。俺は運がいい。男は声を漏らしながら落ちてくる。躱せそうで躱せない。掠めるように接触し、男が舗道に勢いよく着地して足首を捻る。
厳密に言えば拳銃は今も違法だ。俺は銃を引き抜き、男が立ち直る前に腹を撃つ。
影がちらつく。いつのまにか左の方に俺と同じくらいの背丈の女が、剣呑な顔を強張らせ、さっきまでただの舗道だった場所に立っている。両手はぼろぼろの外套のポケットに深く突っ込まれ、片手が何かを握っているように見える。
武器かはったりか。粒子か波か。一番のドアか二番のドアか。
俺は銃を女に向け、弾を撃ち尽くしたばかりに見えないよう必死で装う。狂おしい一瞬、俺が死のうが生きようが、ここで何が起きようが大差はないんだと思ったのは、ありえない角度で隔たれたどこかに、万事順調な並行宇宙が存在する可能性があるからだ。
違う。観測されない限り何も起こらない。ひょっとしたら、少し目を逸らせば……。
女が去り、吐き出されたのと同じ路地に呑み込まれていく。歩道で痙攣しながらごぼごぼと音を立てているものを、俺はまたぎ越す。
「こんなとこにいちゃいけない」ジャネットの隠れ家に着くなり俺は言う。「フェンスに何ボルト流れていようが関係ない、ここは安全じゃない」
「その通りだね」とジャネットは言い、テレビを六チャンネルに合わせる。神の代弁者の力強く澄んだ声が届く。復活者たちは対地同期衛星を有しているから、かのくそったれは決してオフラインになることがないらしい。
だがジャネットはテレビを見ていない。ただソファに座り、膝を顎に引き寄せて窓の外を見つめている。
「大学の方が警備は厳重だろ。部屋の用意もある。通勤の必要だってないんだ」
答えはない。テレビの中の話し手は世俗科学の毒果実について講義をしている。
「ジャン――」
「私なら平気だよ、キース。まだ誰も入ってきてない」
「いつか来るさ。フェンスにゴムマットを被せるだけで第一防衛線を突破できるんだぞ。遅かれ早かれ正面ゲートのコードだってクラックされるだろうし、さもなきゃ――」
「それはないよ、キース。計画しなきゃいけないことが多すぎるもん」
「ジャネット、ちゃんと聞けよ――」
「組織立ったものなんてもうないんだよ、キース。気づいてないの」
爆発音が数回、どこか遠くからかすかに響く。
「気づいてるさ」
「この四年で」まるで俺が口を開かなかったかのようにジャネットが言う。「あらゆるパターンが……崩れ去った。最近は予測するのがものすごく難しくなってる。しかも予想がついたところで、できることは何もない」
ジャネットがテレビを一瞥する。進化は熱力学第二法則に反すると話し手が解説している。
「なんか可笑しいよね、ほんと」とジャネット。
「何が」
「全てが。第二法則が」画面を手で示す。「エントロピーの増大、無秩序に向かう秩序。宇宙の熱的死。何もかも可笑しい」
「可笑しいか?」
「つまりね、物理の前では生命はとっても哀れな現象だってこと。そもそも生命が発生したこと自体がちょっとした奇蹟だよ」
「おいおい」俺はとりなすように笑う。「創造論者みたいな物言いになってるぞ」
「うん、ある意味あの人たちは正しいよ。確かに生命とエントロピーはそりが合わない。長い目で見ればね。進化は単なる――引き延ばし戦術、でしょ」
「ああ」
「例えば、激流が時空に轟々と流れていて、何もかもを掻き回してるとするね。それでたまに情報の小さなポケットが生まれるわけ、渦の中とか、守られたちっぽけな淀みの中とかに。たまにそれが目醒めるくらい複雑になって、わずかな確率に打ち勝ったことを鼻にかけるようになる。でも、長くは続かない。流れに抗うには途方もないエネルギーが必要だから」
俺は肩をすくめる。「大して新鮮味はないぜ、ジャン」
一瞬、ジャネットはうんざりしたような笑みを作る。「うん、私もそう思う。学部生の実存主義だね。今は何もかもが……空腹だってことが言いたいだけ」
「空腹?」
「人。生命一般。ネット。問題なのは複雑系でしょ。複雑になればなるほど、エントロピーは激しく引き裂こうとする。ひとつにまとまっていようとするだけで、どんどんエネルギーが必要になる」
窓の外をちらりと見る。
「もしかしたら最近は」とジャネット。「得られる以上に必要になってるかもしれない」
身を乗り出し、リモコンをテレビへ向ける。
「だけどあなたの言う通り。ちっとも新しくない」
笑顔が薄れていく。その代わりに何が浮かんでいるのかは判然としない。
「昔はてんでピンとこなかったでしょ」
たぶん、疲労だろう。
ジャネットがリモコンのボタンを押す。話し手が溶暗し、長広舌が途中で断ち切られる。一瞬だけ、白い点が反抗するように中央で瞬く。
「ほら」皮肉と屈服の中間のような声で言う。「下流に流された」
握ったドアノブは時計回りにも反時計回りにもたやすく回る。鍵はかかっていない。どこか壁の向こうでテレビが笑い声を上げる。
ドアを開く。
オレンジ色の光が廊下の突き当たりの床から斜めに伸び、リビングのランプが落ちている。あちこちにあいつの血がある。床で凝固し、ねっとりした細流となって壁を覆い、細い褐色の仮足が幅木へ這い落ちる間に固まって――
違う。
ドアを開く。
数センチ開き、つっかえる。ドアは向こう側にある何かに少し押し戻され、押すのをやめるとだらりと後退する。戸口の隙間から見えるあいつの手は掌を上にして床に置かれ、指は死んだ昆虫の手足のように少しだけ曲がっている。もう一度ドアを押すと指が硬材にぶつかり、力なく揺れる。
違う。これでもない。
ドアを開く。
連中がまだあいつと中にいる。四人だ。ひとりはカウチに座ってテレビを見ている。ひとりはあいつを床に押さえつけている。ひとりはあいつをレイプしている。ひとりは笑みを浮かべて廊下に立ち、ダクトテープを巻いた手を、釘と割れたガラスで飾った得物をこちらへ振る。
あいつの目が開いている。何も音を立てていない――
違う。違う。違う。
これは単なる可能性にすぎない。どれも実際に見てはいない。まだ起こっていない。ドアは閉まったままだ。
開く。
確率波が崩壊する。
勝者は……
どれでもない。ここはあいつのアパートでさえない。ここは研究室で、俺は大学の防壁の内側にいる。炭素積層コンクリートの背に隠れ、しばしば働きすぎることもある亜知性警備システムと武装パトロール隊に守られて安全だ。今日はたとえ回線が通じていてもあいつに電話する気はない。こうして浅ましくも心変わりして存在すらしない世界に耽るまいとする。
俺は正気を失ってはいない。
あいつのデスクは二週間も放置されたままだ。隣り合ったコンクリート壁には窓もなければ塗装もなく、ノスタルジックな図表とプリントが散らばっている。人口周期、リッカー型再生産曲線に生じたフラクタル、「トートロジーはトートロジー」との手書きメモ。
何が起きているのかわからない。俺たちは、あいつは変わりつつある。当たり前だ、この莫迦、レイプされたんだぞ、変わらずにいられるはずがあるか。だが、あいつを襲った男は単なる触媒で、なんというか、不透明な謎に包まれて進行する変態の引き金にすぎなかったかのように思えるのだ。あいつは蛹に覆われている。その中では何かが起きていて、動きがぼんやりと見えることもあるが、一切の細部が秘されている。
俺はあいつを心から必要としている。宇宙に秩序を押しつける能力を、あらゆるものを些末事に変えようとするひたむきな欲望を。満足のいく結果が出たことはなく、いつだってあいつにとって全ては近似にすぎず、解を出すたびに俺はしっぺ返しを食らった。「なるほどね、でもどうして?」まるで二歳児と共同研究しているみたいだった。
俺は昔から寄生虫だったんだ。片目の視力を失ったような気分だ。
皮肉なもんだ。量子生理学者キース・エリオットは、物質の最小構成単位に無限の可能性を見た。カタストロフ理論学者ジャネット・トーマスは、生態系全体を数行のコンピュータコードに還元した。俺たちは殺し合っていてもおかしくなかった。どういうわけか、ふたりの組み合わせはうまくいった。
おっと。俺はいつから過去形を使っていたんだ?
留守電が入っている。一〇時間前のものだ。ありえないことが起こっていた。警察が容疑者を確保したのだ。人相写真がメッセージキャッシュに記録されている。
男は少し俺に似ている。
「あいつか?」と俺は訊く。
「わからない」ジャネットは窓から視線を外さない。「見なかったし」
「どうして。こいつが犯人かもしれないんだぞ! アパートを出なくてもいい、ただ折り返し電話して、はいかいいえか言うだけでいいんだ。ジャン、どうかしたのか?」
ジャネットが首を傾げる。「あのね、目が醒めたの。ようやく世界の意味が少し……読み解けるようになってきた、ってところかな――」
「クソッ、ジャネット、きみはレイプされたんだ、洗礼されたんじゃなくて!」
ジャネットが膝を顎に引き寄せ、前後に揺れ始める。俺には呼び戻すことができない。
それでもやるしかない。「ジャン、ごめん。でもさ……わからないんだよ、きみがもう何もかもどうでもよさそうにしてるもんだから――」
「告発はしない」ゆらりゆらりと揺れる。「誰だろうと。その人のせいじゃなかったんだし」
俺は何も言えない。
ジャネットが肩越しに振り返る。「エントロピーは増大するんだよ、キース。わかるよね。無差別暴力が起こるたびに、宇宙の停止は促進される」
「何を言ってるんだ。どこぞのクソ野郎は故意にきみを襲ったんだ!」
ジャネットは肩をすくめ、窓の外へ視線を戻す。「確かに意識を持つ物質もある。だからって物理法則から除外されるわけじゃないよ」
俺はやっとそれを見て取った。ジャネットが与える常軌を逸した赦しに、従容としたその声に。羽化は完了したのだ。怒りが霧散する。心の底にあるのは名状しがたいむかつきだけだ。
「ジャン」ぼそりと俺は言う。
ジャネットが俺に向き直る。安心させてくれる言葉は一言もない。
「万物は崩れ去り」とジャネット。「中心は保たれず、まったくの無秩序が世に放たれ」
なんとなく聞き覚えはあるが、しかし……だめだ……。
「出てこない? イェイツも忘れたんだ」悲しげに首を振る。「あなたが教えてくれたのに」
俺は隣に座り、初めてジャネットにふれる。その手を取る。
ジャネットはこちらを見ない。だが嫌がっている様子もない。
「じきに何もかも忘れちゃうんだろうね、キース。私のことさえ」
と、俺に目を向けたジャネットが、何かを見て少しだけ笑みを浮かべる。「私ね、ある意味あなたが羨ましいの。未だに色んなことを免れてて。全てにじっと目を凝らすもんだから、ほとんど何も見えなくなっちゃってさ」
「ジャネット……」
だが、ジャネットは俺のことを忘れてしまったようだった。
しばらくしてジャネットが俺の手をほどき、立ち上がる。テーブルランプが投げかける影はオレンジ色で、遠い方の壁に不気味な威容を現わしている。だが俺を怯えさせたのは、穏やかで傷痕もない、等身大のジャネットの顔だった。
ジャネットが両手を伸ばし、俺の肩に置く。「キース、ありがとう。あなたがいなかったら乗り越えることはできなかった。でも私はもう平気。そろそろ自分でやっていかなきゃいけない時機だと思うの」
胃に穴が開く。「平気なわけないだろ」と言った声はしかし、平静さを保てていなかった。
「大丈夫だってば、キース。ほんとだよ。実を言うと気分がいいくらいなの……長い間なかったくらいに。あなたが行っても全然構わない」
行けない。行けるわけがない。
「きみは間違ってる」ジャネットに話をさせろ。落ち着くんだ。「気づいてないようだけど、まだひとりでやっていかなくたっていいと思うんだ、きみにできるわけが――」
ジャネットの目がきらりと光る。「何ができないの、キース」
答えようとして答えられず、それどころか何を言おうとしていたのかもわからず――
「俺ができないんだ」思いがけず、そんな言葉が出てくる。「俺たちしかいないんだよ、ジャネット、全てに抗えるのは。きみなしじゃ無理だ」
「じゃあ、無理にがんばらなくてもいいよ」
口にするのも莫迦らしいが、まったくの予想外で答えが出てこない。
ジャネットが俺を立ち上がらせる。「別に一大事ってわけでもないでしょ、キース。私たちが研究してるのは有尾類の網膜の感受性。気にかけてる人なんていない。誰にそんな必要があるのさ。私たちにだってないんじゃない?」
「そんな程度のもんじゃないのは知ってるだろ、ジャネット! あれは量子神経学だ、意識の本質だ――」
「なんかもう見てらんないや」笑顔は優しげで、声も思いやりにあふれていたので、言っていることを理解するのに少し時間がかかった。「あなたは光子をあちこちで変化させて、物質を制御する手段を手に入れたんだと自分に言い聞かせてる。でもそれは違う。誰もそんな手段は持っていない。複雑さが極まっちゃって、何もかも物理にすぎなくて――」
手がヒリヒリする。いつのまにか俺の掌ほどの大きさの白い染みが、ジャネットの横顔に生まれていた。見守るうちに染みが赤らんでゆく。
ジャネットが自分の頬にふれる。「大丈夫だよ、キース。私にはあなたの気持ちがわかる。あらゆるものの気持ちが。みんな、ひたすら流れに逆らって泳ぐことに疲れ切ってる……」
俺は空中を歩くジャネットを想像する。
「ここを出なきゃ」イメージを振り払って俺は言う。「しばらく大学で過ごしたほうがいい、落ち着くまで俺のところに泊まってもいいんだ――」
「しー」ジャネットが俺の唇に指を載せ、廊下へと導く。「きっと大丈夫だから、キース。あなただって大丈夫。信じて。これでいいんだよ」
俺の横から手を伸ばし、ドアを開ける。
「愛してるんだ」と俺は口走る。
わかってるよと言わんばかりに、ジャネットが微笑む。「さよなら、キース」
俺をその場に残し、ジャネットは背を向けて廊下を歩いていく。俺が立つ場所からはリビングの片隅が見え、あいつが窓に顔を向けるのが見える。彼方の火影に染められたその顔は、まるで殉教者のようだ。ずっと笑顔が浮かんでいる。五分が経ち、一〇分が過ぎる。俺がまだいることに気づいていないのかもしれない。それとも俺のことを既に忘れてしまったのか。
最後、帰ろうとようやく踵を返したとき、ジャネットが口を開く。振り返ると、その目はなおも遠くの残骸を見据えていて、言葉も俺に宛てたものではなかった。
「……いかなる荒き獣が……」そう言っている気がする。他の言葉はごくかすかで、聞き取ることができない。
その報せが学部に走ったとき、俺は関わるまいとして失敗する。連中は近親者を知らないから、偽りの同情は俺に向けられる。あいつには人望があったらしい。ちっとも知らなかった。同僚や競争相手が俺の背中を軽く叩いてゆく。まるでジャネットと俺が恋人同士だったかのように。こういうこともある、おまえのせいじゃないと、新しい知恵でも授けるように言って。俺は哀悼の言葉をできるだけ耐え忍び、それから独りになりたいのだと告げる。これは少なくとも理解されたらしい。そして今、肉とガラスの突然の衝突でズキズキと拳を痛めながら、俺は解放されている。顕微鏡の目に飛び込み、現実世界の奥底へと逃げ込む。
かつて俺は誰よりも優れていた。ここで長い長い時を過ごし、量子インタフェースに鼻面を押しつけ、常人を狂気へと駆り立てる不確定性を抱き締めてきた。だがここで気持ちが安らぐことはない。そんなことは一度だってなかった。俺は外の世界の方が怖かっただけだ。
外では出来事が起き、しかも取り返しがつかない。ジャネットは去った、永遠に。二度と会うことはない。ここではそんなことは起こらないはずだ。ここなら不可能なことは何もない。ジャネットは生きていると同時に死んでいる。俺は違いをもたらし、もたらさなかった。親が生むのは赤子であり、怪物であり、その両方であり、いずれでもない。ありとあらゆることがありうる。確率波に乗れるここなら、選択肢は永遠に開かれたままだ。
俺が目を閉じている限りは。
初出はエドモントンのテセラクツ・ブックス(現在はカルガリーのエッジ・ブックスに合併された)から刊行されている半定期的なアンソロジーシリーズの一冊、イヴ・メイナール&ロバート・ルンテ編の Tesseracts 5 だ。破綻した人間関係を展望台に用いて全世界的な生態系の崩壊を眺めるというのが話の大筋で、視点となる落ちこぼれ研究者は、量子力学はお決まりのパラレルワールドやDVDプレイヤー以外にも応用できることを学ぶ。
例えば、否認とか……。