バルク食品
ピーター・ワッツ&ローリー・チャナー

 この短編には実体験を物語っているような真実味がある。ブリティッシュコロンビア大学で学位持ちの淫売として働いていた短い在職期間中、私は自然生息地における水族館擁護者、動物権利擁護活動家、舞台裏の雑兵らと幅広い交流を持った。私は観察し、記録をしたためた。彼らのパフォーマンスに褒美のクッキーを投げ与える誘惑に抗い、私が本物の生物学に取り組むのを阻むいつ終わるとも知れぬ莫迦げた政争にかまける奴らの頭蓋を叩き割ってやりたいという(やや強めの)誘惑に抗った。

 この短編を書く誘惑には抗えなかった。共作者からは多大な助力を頂いた――生物学面でというより、ユーモアの面でたっぷりと。「バルク食品」の初出は二〇〇〇年の〈オン・スペック〉誌で、掲載時の挿絵は著者サイトのギャラリーで閲覧できる。

 回遊者と定住者、幼獣死亡率、ブレイクスルー以前から存在する種々の張りぼてといった科学的要素は、だいたい正当なものだ。レース・ロックスは現に海洋哺乳類の溜まり場になっている。ヴァンクーヴァー水族館のレイアウトに詳しい人は、ダグ・ラルガの冒険を追ううちにデジャブを覚えるかもしれない。悲しいことに、キャラクタの造形は読者が思うよりずっとリアルだ。実を言うと登場人物の名前も、クジラ監禁を巡る議論の擁護派・反対派双方の実在する有名人と多少の(しかし訴えられる恐れは皆無の)類似性を孕んでいる。

 思い返すとあんな二枚舌の下衆どもでも懐かしい気がしてくるのは、情けない限りだ。

 動物権利擁護界の小さな星、アンナ・マリー・ハミルトンが水族館の門前で檄を飛ばし、マスコミの注目を浴びている。信奉者たちは一挙一動を見守り、プラカードが掛け声のリズムに合わせてボール紙の白波のように浮いては沈む。憎き宿敵、回遊者トランジェントを嫌悪せよ――

 回遊者を食え、と書かれたサンドイッチボードで着飾るクジラ愛護家のひとりが、そばの記者に向かって喧騒越しに叫ぶ。「違ぁう、これはホームレスのことじゃない――クジラのことだ、この野郎……」

 記者は真面目に聞いていない。ちょうどアンナ・マリーが口を開いたところだからだ。シュプレヒコールがさっと止む。アンナ・マリー・ハミルトンの言葉はいつだって関心を集める。近頃、その言葉はころころと変わる。ブレイクスルー以前、アンナはクジラたちを解放しようとしていた。驚くことにクジラを捕虜、虜囚と呼び回っていたのである。

「クジラを救いなさい……」とアンナ・マリーが切り出した。

 記者は失望の呻きを漏らす。またか……。

 少し離れた入場ゲートで、ダグ・ラルガは機械にデビットカードを通して通過した。抗議者たちはダグのレーダーにぼんやりとしか映らない。学生時代に抗議への参加を検討したのは、べたべたと馴れ馴れしいクジラっ娘を口説き落とそうと思ってのことにすぎなかった。当時はやることしか考えていなかったのだ。

 いやはや。今のダグがしていることときたら……。

 海峡に霧笛が谺する。どこに目を向けても視界は悪い。喫水線の上は灰色の霧、下は緑色の闇。レース・ロックス灯台の周辺海域は空っぽだ。かつての野生動物の聖域は、今や非武装地帯になっていた。

 島々から二〇〇メートルの地点で、防衛センサ網が侵入者に対して根気よく耳を澄ましている。そんな輩はいなかった。今日は観光客にとっては寒く、スパイにとっては霧が濃く、大半の陸生哺乳類にとっては湿度が高かった。警戒線を超えようとするものはいない。水面下の交通さえ、往時に比べてめっきりと減っている。たまに現れる白と黒の涙滴型のトリオは、それぞれスクールバスくらいのサイズだ。時折見えるナイフのように尖った背びれの長さは人の背丈ほど。他には何も見当たらない。

 数年前、ここはもっと賑やかだった。以前のレース・ロックスにはアシカやアザラシ、イシイルカがうようよしていたものだ。コククジラ属、ネズミイルカ属、アシカ属、トド属が、当時の名士録の常連だった。

 そういう肉の山が一掃されて久しい。近頃ここを訪れる唯一の種が、シャチ属だ。シャチたちは訪問者として身分証明を求められることがない。好き勝手にやっている。

 五キロメートル東で、民間トロール漁船〈ディプネット〉号がのたうちながらハーフスロットルで前進している。濡れて滑りやすい船べりに灰色の朧な影が落ち着きなく群がり、濃い霧に負けじとフードを被る。世界から色を奪う霧でさえ、船上の熱狂を冷ますことはできない。男女混声合唱の歌声が途切れ途切れに波間を漂う。

「きっと私たちが姉妹だとわかってくれるはず、この愛で、この愛で……」

 二五メートル下方から、一連のクリック音が水柱の中を上昇する。それはまるで指がじれったそうに打ちつけられるような音だった。

 ダグは諸々を勘案して最適な位置を見つけていた。へりのすぐそば、強化プラスチック製の巨大な舌みたいな通路が水槽の上に延びているところだ。他の観客は先見の明がないのかやる気がないのか、メイン水槽を囲む観覧席に詰めていた。プレキシガラスの飛沫除けが、内部の百万ガロンの濾過済み海水と肉食の巨獣から観客を隔てている。奥の方では、さらに多くの強化プラスチックと数トンの成形セメントが岩がちな海岸線を模していた。時折、黒くなめらかな背中が水面に波を立て、背びれが欲情したペニスのように突き出す。ここで垂れひれ症候群を見ることはまったくない。昔とは違うのだ。

 まもなくショウの開始予定時刻になる。ダグはこの暇を使って計画を見直す。舌からギャラリーまでは二〇秒。さらに三五秒でギフトショップ。誰にもぶつからなければ計五五秒。ぶつかった場合は六〇秒だろう。誰が相手でも吹っ飛ばす所存だ。ダグ・ラルガには任務がある。

 プールサイドのスピーカーからファンファーレが鳴り響く。海岸の壁に突然開いた穴から現れた元気いっぱいのブロンド女性は、伝統的な制服をまとっていた。白いショートパンツ、眩しい青のスタッフ用シャツ。ベルトにぶらさがる奇妙な電子機器。片頬に弧を描くヘッドセットのマイク。わっと歓声が上がる。

 ブロンドの背後では、日本人らしき男が一二歳ほどの同じく日本人の子どもと一緒に舞台袖に控えている。デッキ上の女性はふたりに手を振り、観客に挨拶する。

「こんにちは!」甲高い声がスピーカーから朗々と響く。「水族館へようこそ、そして本日のクジラショウへようこそ!」

 高まる喝采。

「本日のスペシャルゲストはテツオ・ヤマモトくんとそのお父さん、ハーシェルさんです」女性は片手を水槽に差し伸べた。「さらなるスペシャルゲストはもちろん、シャムです!」

 ダグは鼻で笑う。シャチの名前はいつもシャムなのだ。近頃の水族館はキラーホエールの名付けに頭を悩ませたりしない。

「私はラモナ、今日は皆さんの博物学者を務めさせていただきますね」ラモナは喝采を待ち受けている。拍手はまばらだったが、スタンディング・オベーションだったかのように感謝を述べ、口上を続ける。「さて、あのブレイクスルー以来、私たちはシャチ語を理解できるようになりましたが、それを話すことはまだできません――最低でも、高周波で手助けしてくれる高価な機械がないといけません。幸い、当水族館が開発した最先端の翻訳ソフトのおかげで、ふたつの種族はお話することができます。私がシャムにいくつかの動きを特別にお願いして、テツオくんとふれ合えるようにしてみましょう」

 坊主はステージ中央に出てくるはずだ。きっと日本の通過儀礼か何かなのだろう。ナンバーワンの息子はいかにも思春期直前で、手先が不器用そうだ。今日は念願が叶うかも。

「受賞歴のある当館の教育展示でご覧になったかもしれませんが」ラモナが朗らかに続ける。「海にはシャチの社会が二種類あります。定住者レジデント回遊者トランジェントです。どちらの社会も最高齢のメス、女族長メイトリアークに支配されています。ですが、それ以上の共通点はそんなにありません。実は、ふたつの社会は盛んに憎み合っているんです」

 リズミカルな地団駄が観衆のどこかから聞こえ出す。ラモナは一層にこやかに微笑んで声を張り上げ、ゆっくりと前進する。研究と教育、それがこの水族館のモットーであり、こだわりである。何かを学んで初めて良いものに出会える、というわけだ。

「さて、一九七〇年代から知られていることですが、回遊者がアシカやイルカ、他のクジラさえ狩る一方で、定住者が餌とするのは魚だけです。でも、その理由はブレイクスルーが起こるまでわかりませんでした。なんと、定住者はキラーホエール版の動物権利擁護活動家だったのです!」あからさまな冗談だ。ダグがここの調査を始めてから一年余り、この一節で笑った客はひとりもいなかったが、歌詞はまるで変わり映えがしない。

 動じることなくラモナは続ける。「そうなんです、定住者は他の哺乳類を食べるのは倫理に悖ると考えています。一方の回遊者は、自分たちはあらゆる海の幸を食べる権利を神から与えられたのだと信じています。どちらも相手を不道徳だと見なしていて、定住者と回遊者は何百年にもわたって口も利かない関係なのです。もちろん当水族館はどちらの側にもつきません。普通の人は、よその宗教的問題には口を出さないほうがいいと知っていますからね」

 ラモナが話を止める。いくつもの声が一体となったシュプレヒコールが、外壁を超えて静寂の中へとかすかに漂ってくる。

「消えろ――失せろ――冥土に落ちろ、女族長メイトリアーク――」

「それに人がどんなことを考えていようと」ラモナが微笑んで言う。「菜食主義者のシャチなんてものはいません」

 とりあえず、今のところは。

 ディプネット号はゆっくりと着実に西へ進んでいる。積荷たる使節たちが波間に原住民の徴候を探す。その強固な信念に揺るぎはなく、視界がゼロであることなど物ともしていない。誰もが異種知性と心を通わせられるわけではない。相手は様々な点で優れた知性なのだ。

 もちろん、あらゆる点で優れてはいない。ディプネット号の乗客の多くは古き良き道徳的絶対主義の時代に、人間が食べるときに限り食肉が殺戮行為だった時代に憧れを抱いている。当時、タンパク質コンビナートの傀儡ではない人からすれば何もかもが明快だった。無知蒙昧の質問には即答することができた。

 どうしてサメがアシカの赤ちゃんを殺すのはオッケーなの? サメは道徳的行為者じゃないからだよ。サメは自分の行動の倫理的な意味合いを理解できないんだ。

 どうして人間がアシカの赤ちゃんを殺すのはオッケーじゃないの? 僕たち人間は自分の行動の倫理的な意味合いを理解できるからさ。

 今やシャチも道徳的行為者である。シャチには会話し思考する理性がある。ディプネット号の乗客にとっては意外でもなんでもない――そんな真理は、間抜けな科学者連中がシャチは概ねひれのついたチンパンジーであると主張する遙か以前から知っていた。だが時に、あり余る見識が間違った質問を、真理から人の目を逸らす質問を招くことは起こりうる。例えば。

 どうしてシャチがアシカの赤ちゃんを殺すのはオッケーで、私たちが殺すのはだめなの?

 莫迦な科学者どもが余計な口を挟んで全てを証明なんてしなければよかったのに。こうなるとシャチに食肉を諦めさせる以外に道はない。

 定住者が道徳的である見込みはかなり高い。少なくとも魚を限度として一線を引いている。回遊者は無慈悲な哺乳類食を貫いているが、定住者には完全な啓蒙へと導ける可能性がある。陸上では西海岸で最も有名なキルリアン栄養士の女性がシャチの必要栄養量を満たす代替策を休みなく模索している。栄養士は自分の飼い猫を相手に華々しい成功を収めていた。ヴィーガン食の効率性は従来のペットフードを凌駕しており(猫は昔に比べればほんの少ししか食べない)、それでいて猫たちは活力に満ち、いつも外をほっつき歩いている。もはや家で猫を見かけることは滅多にない。

 当然、全てがそんなふうに上首尾だったわけではない。挫折もあった。結果論になるが、昨夏、春季移住中のA4ポッドにロメインレタス一〇〇〇玉を投入したのは時期尚早だった。定住者はヴィーガンに転向せず、それどころか禁哺乳類食の方針に例外を設けていたことが判明したのである。幸いにも船に乗っていた全員が生還した。

 しかしそれも過ぎたこと。何事も経験である。今日は、哺乳類食の回遊者という敵に対して定住者と連帯を結び、理想のために人類の声を平和的抗議に加えるだけでいい。道徳教育は後回し。友達になるのが先決だ。

 その点について言えば、ディプネット号の面々は自らの能力に全幅の信頼を置いている。準備は万端、やる気は充分、自分たちは精鋭中の精鋭だ。

 精鋭に決まっているではないか。ひとり残らず全員が、アンナ・マリー・ハミルトンから大抜擢された逸材なのだから。

 シャムがダグのそばで空中へと飛び出した。象牙色の腹は水面から優に二メートルは上にある。目が合った。キラーホエールの知性に関する逸話を耳にしていても、ダグには相変わらず口の利けない巨大な魚にしか見えない。

 シャムが腹打ち飛び込みをする。小さな津波が飛沫除けに打ち寄せる。おぉぉぉぉぉ、という声がそこかしこで上がる。

「ところで、シャムは回遊者なので、普通であれば魚は絶対に食べません」とラモナが言う。これは完全に正しいわけではない。ブレイクスルー以前、魚は回遊者の餌食だった。適切な食事計画は言語の壁が崩れた際にいち早く交渉を行った項目のひとつだ。「ですから、本当に食べたい餌にありつくには少し身を潜めなければならないことを、シャムは知っています」

 ラモナがベルトの制御装置に触れ、マイクに向かって話す。スピーカーから響いたのは英語ではなく、黒板を爪で引っ掻いた音に近かった。

 シャムが連続のクリック音で応じ、水面下へ潜る。波がゆらゆらと水槽に広がり、壁にぶち当たって弱まってゆく。ダグは背伸びをして、白と黒の影が水槽の底近くで潜伏しているのをかろうじて見て取った。まるでネズミ捕りで待ち構えるパトカーのようだ。

 周囲に動きがある。ダグがちらりと目を上げると、チョコレート色の巨体がどしんどしんとデッキ上へ進み出てきた。そのサイズは、電気式突き棒のささやかな助けを借りて獣を舞台へと追い立てる男性の二倍はある。

「皆さんのなかにはこの大きな暴れん坊に見覚えのある方もいらっしゃるでしょう」ラモナが英語に切り替えた。「そう、トドです。まだこの子がほんの子どもだった頃、当水族館の誇り高きスポンサーでもある北太平洋漁業協会の科学者たちが、この子とそのお友達を野生から救出したんです。救出は北太平洋のアシカの保護を推進する研究プロジェクトの一環でした」

 トドは頭を前後に揺らして突進し、馬のように鼻を鳴らす。濡れた茶色の目が間抜けにもぱちくりとまばたきする。

「危ないところだったんです。ご愛顧いただいております鰭脚類のハビタットでご存じかもしれませんが、野生のトドはつい五年前に絶滅を宣言されました。今や当水族館はこの立派な動物を見られる世界で唯一の場所です。そして私たちは、犯した罪に対する責任を真摯に受け止めております。どんな苦労も惜しまず、生き物たちが暮らす環境全てを可能な限り自然と同じにしています。そこには……」

 ラモナが劇的効果を狙って溜めを作る。

「……捕食者も含まれます」

 荒々しい歓声が観覧席から上がる。驚いたトドが毛むくじゃらの大型メトロノームのように頭を上下に振る。来た道を戻ろうとするが、突き棒を持つ男性に行く手を塞がれる。

「大きな声を出したり、急に動いたりしないでくださいね」遅まきながらラモナが微笑む。

 突き棒で二、三度小突かれ、トドが水中へ滑り込む。すかさず潜水し、やがて広い新居に興味を示し出した。

 すべきことを瞬時に悟ったらしく、トドはプール中央からポラリス・ミサイルのように打ち上がった。脱出速度を稼げずに着水し、ひれを目一杯速く回して水槽のへりへ突き進む。

 シャムがシヴァ神のごとく浮上する。鮮やかな一噛み、トドは水の詰まった巨大ピニャータさながらに破裂する。血のカーテンがプレキシガラスの防壁を濡らし、あふれ出た腸が煌めくピンクの消化ホースのように宙を舞った。

 観客が狂喜乱舞する。これぞ人々の共感を集め、受賞の栄光に浴した教育展示である。

 シャムが縦横無尽に襲いかかり、トドの残りをたいらげる。一分とかからない。シャムが食事を終える頃には、ラモナがハープーンを通路に設置し終えていた。

 島から二キロの地点で精鋭のひとりが潮吹きを耳にし、他の者に警告する。先立つ三回は一等航海士が鼻をかんだにすぎなかった事実にもめげず、巡礼団は期待に静まり返る。

 実はここにいる誰ひとりとして本物のシャチの潮吹きを聞いた経験はなかった。文明人がクジラ刑務所のひいきになるはずもなく、ホエールウォッチング・ツアーは何年も禁じられていた――ハラスメントの問題だとのたまっているが、ボブ・フィンチと水族館業界が競合相手を排除しようと企んでいるだけだということくらい、誰だってお見通しだ。

 霧の中、乗客たちは黙って身を寄せ合い、ディプネット号のディーゼルエンジンの咳越しにも聞こえるよう耳を澄ます。

 シュー。

「ほら! やっぱりそうだよ!」果たして、左舷数メートル先の水面の霧がない一角を、何かがよぎった。「あそこ! 見える?」

 シュー。シュー。

 続いて右舷で二回。リヴァイアサンが挨拶にやってきたのだ。その息吹はまるで霧を晴らすかのよう。ティッシュペーパー越しのような淡い太陽が空を照らしている。

 船上はお祭り騒ぎだ。ふたりが目を閉じ、テレパシーでシャチと交信しようとする。真に啓蒙された魂には、地球を強姦する愚鈍なテクノロジーなんぞに頼らずともコンタクトを図れるのだ。他の面々は使い古したビッグ著『入門:キラーホエールの系譜と自然史』を取り出す。出会うとすればL1、南方の定住者の群れポッドだろうとアンナ・マリーはおっしゃった。飢えた目がページと揺れる漆黒の横腹を見比べ、目印になる傷と模様を探す。

「ね、あれはL55かな? 鞍部に尖った模様があるでしょ」

「いや、L2だ。もちろんL2だとも」

 テレパスのひとりが声を上げる。「人間がつけた名前で呼ぶべきじゃない。不愉快かもよ」

 諌められた信奉者たちが黙り込む。少しして女性が咳払いする。「あー、それじゃあどう呼ぶべきなのかな」

 テレパスの女性が辺りをさっと見回し、「うーん、あのシャチが」と船にいちばん近いひれを指さす。「名前を教えてくれた、うーん、シスター・スターゲイザーと」

 おぉぉ、という声がユニゾンする。それぞれの手がレインポンチョの下の水晶に伸びる。

「背びれは六フィート」一等航海士がぼそりと言う。「オスだろ」

 誰も気づいていない。「うわ、あっちの大きいのを見て! 女族長じゃないかな!」

「本当にLポッドなんかね」別の者が自信なさげに尋ねる。「数が少ない――L1は大きな群れのはずだろ。見た感じ……あれは、あのでかい奴はP28じゃなかったか?」

 その言葉に全員が凍りつく。「P28は回遊者」白髪交じりの長髪にタマキビの貝殻を編み込んだ四〇歳くらいの女性が言う。「L1は定住者の群れ」告発は明確だ。おまえはアンナ・マリー・ハミルトンを嘘つき呼ばわりするのか。

 異端者は冷たい沈黙にたじろぐ。「いや、ガイドにそう書いてあるんだよ」護符のように資料を差し出す。

「寄越しなさい」タマキビが本を奪い取り、ページをめくる。「これは旧版」と奥付を開いて振る。「一九八〇年代の版だなんて! 新版を買いなさい、アンナ・マリーが認めたものを。この群れは絶対にL1よ」信憑性のない紙束が脇へ放られる。「ボブ・フィンチはこういう古臭いガイドに二〇〇二年まで関わってた。それ以前の本は信用しちゃだめ」

 操舵室のハッチが開いた。ディプネット号船長、耳が上下あべこべに取りつけられたかに見えるひょろりとした老練水夫オールドソルトが咳払いし、「メッセージが届いた」とエンジン音越しに告げる。「今スピーカーに出す」ハッチが閉じる。

 メッセージ! もちろんディプネット号はテクノロジーを完備している。水中聴音器、コンピュータ、無知蒙昧の徒が種の壁を越えてやりとりするために必要とするあらゆるものを。船室の屋根に取りつけられたスピーカーが後部デッキを見下ろしている。スピーカーがしばらく雑音を吐き、次いでメッセージを発する。

「姉妹。急いで」キーンとハウリングする。「グランドマザー。言ってる。こんにちは」

 愚鈍な西洋世界のテクノロジーが、美しいエイリアンの言語をピジン英語に変換する。

「うおぉ」船べりから声が上がる。「見ろよ」シャチたちがディプネット号の左右を進み、泳ぎと呼吸を完璧にシンクロさせていた。

「ついてこいって言ってるんだ」タマキビが興奮して言う。

「ええ、そうよ」テレパスのひとりが厳かに告げる。「それが感じられるわ」

 シャチたちは船に近すぎて船殻にふれそうなほどだ。ディプネット号はまっすぐ前進する。ちょうどいい。どちらにせよシャチたちは針路変更の余地を残してはいないのだから。

 通路上の椅子はどう見ても子ども用ではない。ラモナがストラップを調整し、照準を子どもの高さに下げる。続いてハープーンの使い方を懇切丁寧に説明する。パパさんが日本語で叫んだ指示は、どうもでたらめだったらしい。テツオはハーネスの中で興奮して跳ね、面倒ばかりかけている。ハーシェルが嬉しそうに扇動を続ける。なあ、お姉さん、俺たちはこいつに一万ドルも払ってるんだ、好きなようにやらせてくれや。父親はラモナの笑みがいつも以上に歯を露わにしていることに気づいていないようだ。

 こいつはかなり期待できそうだ。ダグは肩越しに後ろを見やる。ルートに邪魔者はいない。五五秒だな……。

 シャムがプレキシガラスの向こう側を泳いでいく。

 観客の笑い声が上がる。ダグはステージ中央に向き直る。ラモナはうんざりした様子だ。テツオが座る櫓から飛び降り、父親に日本語で呶鳴っている。いや、アシカ語かも。ハーシェルが後退り、迫るラモナをなだめるように手を掲げる。あちらも興をそそるが、ダグはテツオに視線を注いでいた。坊主が鍵だ。一〇歳の子どもにとって大人の口喧嘩は退屈だし、手にしているのは保護者団体が任天堂を批判し出して以来の最高に血沸き肉躍るビデオゲームのコントローラなのだ。来るぞ、とダグは確信する。きっと起こるはずだ――

 テツオが引き金を絞る。

 ――そら来た。

 ラモナが振り返ったその瞬間、銛が命中した。観衆が喝采し、テツオが狂喜の雄叫びを上げる。シャムはただ悲鳴を絞り、身悶えしている。噴気孔からピンクの雲が噴き出す。

 ダグは半ば踵を返し、片足を上げ、踏み留まった。まあ待て、まだ的中の可能性が……。

「ああもう! 待てと言ったでしょう!」ラモナのマイクは切れていたが問題ない。その呶鳴り声は北極展覧ゾーンにいても聞こえただろう。翻訳機を起動し、数音節を叫ぶ。最前列のスピーカーがキーキーとさえずる。シャムもさえずりで応えるが、感電したかのように痙攣している。尾びれが水を掻き回し、ピンクのあぶくを立てる。

「肺が破裂してる」ラモナが大声で言うと、棒使いの男が舞台裏に消える。ラモナがテツオに振り向く。「じっとしていろと伝えるまで待てと言ったでしょう! あんたはあの子を苦しませたいの? あんな当たり方じゃ死ぬのに何日もかかるのよ!」

 よし。決行だ。

 ダグにはこの後の流れが見えていた。ハーシェルは一万ドルのことを持ち出して、もう一度息子にチャンスをくれと要求するだろう。水族館側は譲らないはずだ。一万ドルで買えるのは一発であって、一殺ではありません。いいえ、お金を支払う気がないのであれば、再挑戦はできません。

 ハーシェルの悲鳴は超音波まで高まり、棒使いが別のハープーンを手に戻ってくるだろう。今度はより大きく、質実剛健な銛だ。ひょっとするとゲストはそれをもぎ取ろうとするかもしれない。結果、不幸な事故が一度ならず発生するだろう。

 どうでもいい。ダグに見物する気はない。既に円形劇場を去るところだ。視界の端に見える競合相手は不意を衝かれ、やっと観覧席から立ち上がったばかり。劇場入口に近い客にはダグを打ち負かすチャンスが残されていただろうが、それはダグが正規の順路を通っていたらの話だ。今回は違う。賞の栄冠に輝いた水中ギャラリーの教育展示を読み込んだ史上初の人物であろうダグ・ラルガは優位に立っていた。今、全速力で目指しているのもその展示だ。

 ハーシェルの一万ドル。テツオのお粗末な狙い。ダグはふたりにキスだってできた。ゲストが獲物を仕留めたら、水族館は死骸を保管することになる。

 だがしくじったときは、ギフトショップにクジラステーキが並ぶ。

 無論、シャチがあそこまでクズだとは誰ひとり予想していなかった。

 アンナ・マリー・ハミルトンとクジラ愛護軍団の当てが外れたのは確かだ。アンナ・マリーの福音によれば、シャチ(断じてキラーホエールなどと呼んではいけない)は調和の取れた母権制社会を営む優しい知的生物である。人類にはシャチの文化の自律性を尊重する倫理的義務がある。野生動物を誘拐する、女性中心の養育世帯から引き離して野蛮な人間の娯楽のために囚われの身として売る――そんな行いは単なる動物虐待を超えている。純然たる奴隷制度だ。

 もちろん全てブレイクスルー以前の話だ。シャチの社会は定住者であれ回遊者であれ奴隷制に基づいていると児童でも知っている昨今、シャチの奴隷化に抗議するのは少々難しい。昔からそうだったのである。女族長は優しいフェミニストの子育ておばあちゃんではなく、体重八トン、でっかい歯を持つ白黒の最愛のお母様マミー・ディアレストだ。加えて子どもたちも大事にされる次世代の保護者などではない。子どもたちは遺伝的な作物にして群れ間交易の共通通貨である。子どもの用途なんて誰にも知りようがない。キラーホエール全体のほぼ半数が一歳の誕生日を迎える前に死ぬ、それが科学的な観察結果だ。

 その手の幼獣死亡率統計は、それが導出された一九七〇年代以来、水族館業界にとって天の恵みだった――確かに当館のハビタットで幼獣が死ぬのは痛ましいことですが、野生のキラーホエールだって立派な親とは言えないわけでして――しかしいざそれが大正解だと証明されると、さしものクジラ刑務所もあっけに取られた。ただ、ショックから立ち直るのに長くはかからなかった。相通じるところのある知性にまつわる反駁不能な証拠を受け容れ、過去の過ちを反省し、種族の間に広がる深淵に手を差し伸べてビジネスを持ちかけたのだ。

 なんとなんと。女族長たちは協定を結ぶ方が幸せだったのである。

 七つの海の奴隷商、と壁一面に広がるスクリーンが太文字で叫んでいる。その横の小画面の列がループ再生しているのは、大陸中の居間で百万回は見られた映像だ。司祭、政治家、延縄漁師、クジラ愛護家からなる友好船団が歴史の中へと乗り出し、Jポッドの女族長との初の正式協定に調印しようとしている。

 ギャラリーの反対側、厚さ二インチのプレキシガラスを越えた先では、水中のピンク色が早くも薄れ始めている。

 ダグはシャチの系図の前に滑り込んで止まる。黒を背景にパステルカラーを配し、裏からライトで照らすキャッチーな色彩設計も退屈さをごまかせていない。見出しをざっと見る。

 あった。G27とG33の間だ。当然、国の建築基準法は非常口を義務付けている。どうしたことかこの水族館がシャチの系図に組み込んだ非常口は、法律の要件通りよく見えるようになってはいるが、巧妙で目立たない。というか、系譜を丹念に読み込んだことのない者には不可視も同然と言っていい。

 これこそダグの秘密の抜け道だ。宿題は済ませてきた。青写真は役所の記録に残っており、見ようと思えば誰でもアクセスできる。この不可視の扉の向こうには舞台裏の通路が三方向に走っており、それぞれ別のギャラリーに対応している。どの通路もいずれは外へ行き着く。そのうちの一本がギフトショップに通じているのだ。

 壁の一部を押す。開いた。背後のメイン水槽の方でボシュッというこもった音がして、人間のものではない悲鳴が後に続いた。ダグは振り返ることなく扉をくぐった。

 右折。疾走。舞台裏から見る展示物は強化プラスチックとポリ塩化ビニルの醜い集合体だ。どの物体もごぼごぼ、ぶぅんと音を立てていて、塩に覆われている。足が水溜まりに滑る。転びかけ、そばの手がかりを掴む。身代わりに胴長靴の棚が倒れた。左折。疾走。片や濾過ポンプ、片や水槽の列が並び、左右を過ぎ去ってゆく。隔離された十数種の魚が、無関心なガラス質の目でダグの通過を見つめていた。

 角を曲がる。予期せぬ障害物が向こう脛を捕らえる。ダグは剥き出しの合板の山に大の字で転んでしまった。木の棘が掌に食い込む。

「クソッ!」痛みを無視して大急ぎで立ち上がる。痛みよりも恐ろしいもの。それは手ぶらで家に帰ったときのアリスの激怒だ。

 あそこだ。木製のドア。給餌係と用務員にお似合いのぼろい緑の金属扉ではなく、真鍮の把手がついたオーク材の高級な扉だ。あれがギフトショップの入り口のはず。あと少しのところで扉がダグを迎えるように向こうから開いたので一散に突っ込むと、中から現れた女性の胸が待ち構えていた。

 見覚えがあるな、とつかのま思い、諸共によろける。別の誰かが垣間見えた瞬間、力と慣性の十数のベクトルが相争いつつ足首に収束する。その一瞬で鋭い痛みが閃き――

「あぁぁぁぁぁ!」

 ――床に激突する。良いニュースは、分厚いパイル地の絨毯の上に転んだこと。悪いニュースは、掌の大部分を絨毯との摩擦で擦り剥いてしまったこと。

 その場に横たわり、身体中の感覚神経から届くコレクトコールを受ける。ふたりの人物に見下ろされていた。相手を認識した途端、痛みがきれいに吹っ飛んだ。

 聖アンナ。そして、かの悪魔だ。

 ディプネット号は辿り着いた。

 辺りには防衛センサ網が張り巡らされている。警告ブイで定められた水面上の境界線、進入を制限する直径一キロメートルの円だ。科学者はたまに許可をもらえるが、旅行者は立ち入りを禁じられている。しかし、ゲートはディプネット号を迎え入れる。

 船はのろのろと交霊ゾーンの中心を目指す。霧は一部晴れていた――防衛ゲートが船尾方向に消え、前方遠くに見えるちっちゃな白い点の解像度が上がっていく。ディプネット号のエスコートは左右に寄り添ったままだ。海峡で短いメッセージを発してからずっと黙っているが、テレパスによればシャチたちは友好と調和の意志にあふれているという。

 もう浮きドックがはっきり見えるほど近い。ゾーン中心に固定された直径二〇メートルほどの白い円盤はなんの変哲もなく、いくつか繋留用の索止めがあるばかり。いかにもシャチ好みのやり方だ。自分たちの縄張りが邪魔な物で散らかるのを嫌っているのだ。上陸できる場所、立てるだけのスペース、それから少し距離を置いて霧の中にそびえるレース・ロックス灯台。あとはシャチと大海原だけだ。

「トイレはある?」と質問が上がる。船長は返答するのではなく観念するように首を振った。船長がスロットルを戻すと、ナイロン製のロープを手に前部デッキで待機していた航海士がプラットフォームへ跳び移り、ディプネット号をドックに引き寄せる。

「さあ、皆の衆」と船長が告げる。「下船だよ」

 エンジンはアイドリングを続けている。「繋留はしませんの?」とタマキビが訊く。

 船長が首を振る。「あんたがたは使節団。俺たちゃただのタクシー。交霊とやらをしている間、俺たちにゾーンにいてほしくないんだとさ」

 タマキビは寛大に微笑んだ。船長の声からは恨みが聞き取れたが、気持ちはよくわかる。少数の選良が歴史的偉業を成し遂げようとしているのを目にしながら、自分は船を操縦しているだけというのは、さぞやつらかろう。船長に申し訳なかった。迎えに戻って来たときは船長と共に祈りの歌を捧げようと、タマキビは決心する。

 船長はぶつぶつと唸り、手を振ってタマキビを追い払う。クンクンと鼻を鳴らし、それにしても、と思う。この女、貝殻の中身をきれいに出してからファッション・ステートメントに取り入れることを覚えてくれんものか。それともこの頃宣伝されてる天然香料って奴か。

 乗客は列になってプラットフォームへ上陸した。ディプネット号のリードを抱えた一等航海士が前部デッキへ跳んで戻る。船が唸りを上げて回頭し、ギアを変え、靄の中へ進み出す。距離が開くにつれてエンジン音が小さくなっていく。

 やがて静寂が戻る。精鋭たちは熱心に辺りを見回し、聖地で声を出さないようにしている。ここへ導いてくれたシャチは姿を消していた。波が浮島に打ち寄せる。レース・ロックス灯台が霧に抗議する。

「なあ、みんな」またも先ほどの異端者だ。遠ざかる船を注視している。「迎えが来るのって具体的にはいつなんだ?」

 答える者はいない。この瞬間は静謐な、神聖な時間だ。後方支援についておしゃべりしている暇などない。この男は崇敬というものをまるで理解していない。実は精鋭たちも不思議に思うことがある。どうしてこんな奴が選抜候補に残れたのだろうか、と。

 壁一面のプレキシガラスから覗く青緑色のアリーナはキラーホエールの水槽だ。一対の尾びれが少しずつ上昇し、水面を突き破って消える。反対側の壁面は、見たことないほど大きな薄型モニタのフレームになっている。画面の中で暗緑色の水が渦を巻く。揺らめく波の光が部屋中央のガラス製コーヒーテーブルに反射する。その奥に鎮座する古風なオーク材のデスクは、まるでミニチュアの木製メサのようだ。

 それらのど真ん中で、ダグはアンナ・マリー・ハミルトンと水族館の支配人ボブ・フィンチを床から見上げていた。アンナ・マリー・ハミルトンとボブ・フィンチが見つめ返してくる。一秒、二秒と時が過ぎてゆく。

「いかがなさいましたか、お客様」とようやくフィンチが尋ねる。

「その――迷っちゃったみたいで」とダグは言い、試しに足を床につけてみる。痛みはあるが引きずって歩くことはできそうだから、折れてはいないようだ。

「観覧ギャラリーはあちらですよ」アンナ・マリーが言い、ダグが入ってきたのとは別の扉を指さす。「それに今は難しい交渉の最中なんです、崇高な同胞の自由のために戦って――」

「まあまあ、アン――ハミルトンさん、おそらくこの――あー……」

「ラルガです」ダグは遠慮がちに名乗った。

「ラルガさんは我々の、えー、交渉の退屈な細部にはあまり興味をお持ちでないのでは」フィンチが手を伸ばし、ダグを絨毯から助け起こす。ダグはふらふらと立ち上がった。

「探していたんです――ギフトショップを!」我が任務! 貴重な数秒、貴重な数分は失われて取り返しがつかず、莫迦ども阿呆どもが雁首揃えて俺の肉を自分の物だと言い張ろうとしている! ステーキを持ち帰れなければ、一週間はソファで寝る破目になるだろう。踵を返し、入ってきた扉へ突進する。半秒、足首のことをすっかり忘れて走り出そうとし、次の半秒でまた床に転がった。「俺のステーキが――」とすすり泣く。「先頭にいるはずだったのに……秒単位で計画を立てたのに……」

「これはこれは」とフィンチが再び救いの手を差し伸べる。「励みになりますな、当水族館の新企画にこうも熱心になってくださる方を見るのは。皆が皆そうとは限りませんのでね。ひとつ、やれるだけのことはさせていただきましょう」

 アンナ・マリー・ハミルトンは腕を組んで立ち、もどかしげにため息をつく。「フィンチさん。こんなことで解放運動から気を逸らすとでもお思いで――」

「後にしましょう、ハミルトンさん。ちょっとしかかかりませんから。約束します、妥協の余地のない難しい交渉にはすぐ戻れます」扉へ一歩進み、ダグに向き直る。「さてラルガさん、お待ちの間にキラーホエールと話すのはいかがでしょう。女族長とです。フアンデフカと生中継できますよ」壁の薄型モニタに手をかざす。

「え、生中継?」大脳皮質で感情が大騒ぎする。失敗の痛み。救済の希望。加えて、漠然とした不快感。「どうかな。その、向こうは納得してるんですか。あんなクジラショウに」

「ラルガさん、納得しているどころか――これはあちら側のアイデアなのです。で、どうですか。話をしてみませんか、本物の異種知性と」

「どうかなあ」ダグは口ごもった。「何を話したらいいんだか――」

 アンナ・マリーがフッと鼻で笑う。

 フィンチがブレザーからリモコンを取り出す。「きっと何かしら思いつきますよ」薄型モニタに向け、ボタンを押し込む。

 見たところ変化はない。

「すぐ戻ります」とフィンチは約束し、部屋を出て扉を閉めた。

 アンナ・マリーが背を向ける。シャチステーキの列に並ぼうと大慌ての人間が不快なのかもしれないな、とダグは思う。

 あるいは、人間が嫌いなのかもしれない。

 長く、悲しげな鳴き声。「シスター・プレデター」人工音声が厳かに言う。

 ダグはモニタに振り返った。白黒の影がフアンデフカ海峡の暗緑色の波の中に現れる。唇のない顎が開き、円錐形の歯が形作るジグザグの三日月が、ほのかな光の中で灰色に閃く。

 再び鳴き声。画面の隅でグリーンのタグが点滅している。〈受信中〉。「同志シスター・プレデター。ようこそ」

 ダグはぽかんと眺めていた。

 クリック音。キーキーと甲高い音が矢継早に二回。呻き声。さらにクリック音。

〈受信中〉。

「私はセカンド・グランドマザーです。きっと水族館と数々の賞を受賞した教育展示をお楽しみになら――」

 ブツッ。画面左上隅に表示が出た。〈回線遮断〉。静寂。

 フィンチのデスクにあるパネルの赤いボタンから、アンナ・マリーが指を離す。

「すごい」とダグ。「ほんとに話してた」

 アンナ・マリーが呆れて目を回す。「そうね、まあ、学力検査か何かでこちらを打ち負かすつもりはないみたいだけど」

 一般通路をギフトショップへと向かっていたボブ・フィンチを、記者が呼び止める。女性記者はハミルトンのデモが引き起こす反応を探っていた。フィンチはじっくりと考えた。「我々はある点については活動家の方々に同意します。確かにシャチは独自の価値観と独自の社会を持っていますし、私たちにはシャチ社会の選択を尊重する道徳的義務があるのでしょう」

 フィンチは薄く微笑んだ。「ハミルトンさんと私の歩む道が分かれるのは、シャチの価値観の実態を理解しようともせずに、いきなり保護しようとした点においてです」

 扉が開く。戸口に立つ救世主フィンチは片手に木箱、もう片手にビニール袋を携えていた。

 ダグは女族長のことも足首のこともすっかり忘れ、希望を胸にカウチから立ち上がる。「それが僕のステーキですか?」

 フィンチが微笑む。「ラルガさん、商品を用意するには数日かかるんです。各標本は大きさと重さを測り、研究を通じた保護の義務に従って調べなければなりませんので」

「ああ、お構いなく」ダグは頷く。「知ってました」

「ギフトショップは名簿を作成するだけです」

「ええ」

「それから残念なことに、今日の標本は全て売約済みでした。行列はアマゾン展覧ゾーンまで伸びていたものですから、代わりになりそうな品をいくつか持ってきました」そう言って袋を掲げる。「大変な売れ行きでしたから、手に入ったのはラッキーでしたよ」

 ダグはラベルに目を凝らす。「リトル・エイハブ:ミニチュア・ハープーン・キット。先端ゴム製。対象年齢六歳以上」

「ゲストより上手く撃てると証明したがる人ばかりでして」フィンチがくすりと笑う。「今夜はたくさんの飼い犬が困った目に遭うでしょう。きっとあなたのお子さんも楽し――」

「子どもはいません」とダグ。「でも犬はいます」パッケージを受け取る。「他には?」

 フィンチが木箱を差し出す。「なかなか上等なゼニガタアザラシを見つけられたと――」

 フィンチ、この偽預言者。裏切り者め。

「ゼニガタアザラシ? ゼニガタアザラシだって! ゼニガタアザラシならギフトショップに山ほどあるじゃないか! 値下げされてただろ! 義理の親が週末やってくる予定なのに、あんたはゼニガタアザラシでもてなせって言うのか? ボローニャソーセージのサンドイッチでも出した方がましだ! ゼニガタアザラシなんか犬も食おうとしないぞ!」

 フィンチが首を振る。気分を害したというより悲しげに見える。「そんな思いをさせて申し訳ありません、ラルガさん。残念ですが、こちらにできることはもうありません」

 ダグは良い方の脚で危なっかしくよろめく。「怪我をした! あんたの水族館で! 訴えてやる!」

「怪我をなさったとしてですよ、ラルガさん、あなたはそもそも法的にいてはならない場所からやってきて怪我をなさったわけでして。さあ、どうぞ……」ダグに意図が伝わっていないかもしれないので、フィンチは扉を少し広く開けた。

「いてはならないだと! 火災避難経路だぞ! そうだ、言っておくがね」ふと勝利の到来を予感して声が穏やかになる。「あの表示は不適切だ」

 フィンチが目をぱちくりとさせる。「不適切、とは――」

「非常口の表示がまるで見えやしないじゃないか」とダグ。「くだらんシャチの系図にすっかり埋まっちまってる。もし火事が起きても、誰にも見つけられなかったはずだ。いいですか、尻に火がついてるのに、足を止めて受賞歴ある教育展示を読む人なんていないんですよ」

「ラルガさん、ギャラリーは頑丈なセメントと百万ガロンの海水に挟まれています。火事の恐れは極めて微々たる――」

「消防保安課がそう考えるか見てみるとしますか。消費者保護主義の六時のニュースがそう考えるかどうかを!」ダグは得意げに腕を組む。

 一瞬の沈黙が訪れる。やがてフィンチがため息をつき、扉を閉める。「その点に関しては美術部門に強く言っておかねばなりませんね。美意識があろうとなかろうと……」

「私はシャチのステーキが欲しいんです」とダグ。

 フィンチがデスク背後の壁へ歩いていく。隠された制御部に触れるとパネルの一部がスライドする。その奥では葉巻の箱が格子状の棚に整然と並べられ、紛れもない冷蔵庫用電球の光に照らされていた。

 フィンチが振り返り、手の中で箱のひとつを開く。ダグは信じられず押し黙る。箱の中身は葉巻ではなかった。

「先ほども申し上げたように、提供できるシャチのステーキはありません」とフィンチ。「ですが、私の個人的な蓄えからベルーガ寿司を差し上げることは可能です」

 ダグは一歩前へ跳んだ。さらにもう一歩。ベルーガを手に入れるのは不可能に近い。しかも年に二回も食べれば水銀中毒になる闇市場のセントローレンス産ベルーガではない。これは正真正銘、最高級のハドソン湾産ベルーガだ。ベルーガに銛を打ち込める人間はチャーチル郊外の自然保護区に囚われた少数のイヌイットだけで、そのうえ先住民の権利を訴え続ける彼らはなんらお咎めを受けることがない。まだ誰もベルーガ語を解読していない(聞いた話ではベルーガは言語も持てないほど知能が低いらしい)ので、ベルーガと協定を結ぶ必要はない。

 フィンチの手の中にある箱は、ダグの給料一週間分の価値がある。

「これでご期待に沿えますでしょうか」ボブフィンチが慇懃に尋ねる。

 ダグは冷静であろうとする。「ええ、そう思います」

 声に滲む喜悦を気取られていない自信が、ダグにはあった。

 それは素人目には乱暴な遊びに見える。その実、跳び回ったり飛沫を飛ばしたり腹打ち飛び込みしたりといった行動は、複雑にシンクロしている。協調的狩猟と呼ばれる狩りだ。南極でキラーホエールの群れがミニ高波を起こして浮氷からカニクイアザラシを洗い落とした、というのが最初の目撃例である。あれこそ知性の紛れもない証だと、一等航海士は教わった。シャチたちが食べ終えるまでの間、航海士は双眼鏡と霧の切れ間越しに目を凝らした。

 ハッチを引き開け、操舵室に入る。船長がディプネット号にギアを入れ、歌を口ずさむ。

 きっと私たちが姉妹だとわかってくれるはず、この愛で、この愛で――

 航海士は調べに乗りつつロッカーを漁り、クラウン・ロイヤルのボトルを掘り出す。「今日もいいショウだった」ボトルを手に敬礼。

 無事にダグ・ラルガが去ると、ボブ・フィンチはコーヒーテーブル下の棚から一対のワイングラスを取り出した。フィンチが手頃なボトルからシャルドネを注ぐ間、アンナ・マリーは薄型モニタ横のパネルをタップしていた。遠いフアンデフカの波音が再び部屋に満ちる。

 フィンチが活動家にグラスを差し出す。「そちらに問題はあるかな?」

 ハミルトンは片手で制御パネルをいじりながら鼻で笑う。「からかわないで。運動の収益はうなぎ上り。クジラと心を通わせる機会を断る人もいない。あいつらにとっては本物の冒険だから」壁のモニタが瞬いて画面が分割される。一方はフアンデフカを縮小した画面に残し、もう一方は水槽が並ぶ水族館の舞台裏を映す。若いオスのシャチが周囲を嗅ぎ回っている。

 フィンチはグラスを掲げる。最初に画面の女族長へ。「あなたのご馳走デリカシーに」次いで事務所にいる女族長へ。「そして私たちのご馳走に」最後に水槽の映像に振り返る。シャチが巨大な黒大理石のような目で見つめ返してくる。

「水族館へようこそ」とフィンチは言った。

 シグネチャ・ホイッスルが音響システム越しに届く。「名前は――」とスピーカーが言う。しばらくすると画面に表示が瞬いた。〈対応する英語がありません〉。

「素敵な名前ですね」とフィンチ。「ですが、こちらから新しい特別な名前を贈らせていただけないでしょうか。あなたのことはこう呼びましょう――シャムと」

「冒険」とシャム。「おばあちゃんはここは冒険って言ってる。狭すぎ。長くいるの?」

 ボブ・フィンチはアンナ・マリー・ハミルトンを一瞥する。

 アンナ・マリー・ハミルトンはボブ・フィンチを一瞥する。

「長くないよ、孫や」エイリアンの声が遠くフアンデフカの冷たい海から届く。「全然、長くはかからないさ」

Launch Date: Feb. 26, 2021

Last modified: Feb. 26, 2021

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