吸血鬼の家畜化
より良い明日のため、昨日の悪夢を飼い馴らす

人工的ヒト科亜種学会第一回隔年会議で行われた講演の図表付き筆記録

ピーター・ワッツ博士

ファイザーファーム FizerPharm

エヴォコンスーマブルス Evoconsumables

子どもたちのために

 こちらはドニー・マース。ニューヨーク在住で年齢は九歳、高機能自閉症のサヴァンです。社会的スキルは限られていましたが、頭の中で六桁の素数を弾き出すことができました。彼の名前をご存じの方はお気づきと思いますが、この写真が撮られたのは実験的な治療を受ける前のことです。その治療は、彼の疾患に関わるある重要な遺伝子を調整レトロウイルスで書き換える、というものでした。基本的に我々の狙いは、分子レベルでコードを書き換えて彼の自閉症を治すことにあったのです。

人類のために

 これは遺伝子治療開始から八週間後のドニー・マースの写真です。肌の変色は貧血によるものではありません。実際は血液量が七パーセント増えていたのに、彼は末梢組織の血液を再分配し、身体の奥深くへと隔離するようになっていたのです。その原因はこの時点では不明でした。血の気の薄い顔色はドニーの身体に表れた症状の中で最も目立つものですが、症状は他にもあります。歯肉線は著しく後退していますし、反射率が増加した網膜は、猫や夜行性の捕食動物の目に見られる輝板を思わせます。振る舞いにも変化が見られました――夜間の活動レベルが上昇して日中は眠るようになり、睡眠中の代謝率が本来の半分ほどに落ちていたのです。

株主の皆様により良い人生を

 おそらく最も不穏な症状は、心理テストで明らかになった情動の欠如の進行、感情的な刺激に対する反応の低下でしょう。例えば交通事故、あるいは国土安全保障省の尋問で切り刻まれた人間の写真を見せられたときのドニーの皮膚反応と心電図は、風景や静物のようなニュートラルな写真を見せられたときとほとんど変わりませんでした(この点をさらに追究したい気持ちはありましたし、実際にMRIの手配もしたのですが、技術者が誤って面会時間中にスライドショーを流しっぱなしにしたせいで、ドニーの両親は同意を取り下げてしまいました)。

自由の製薬

 ここでは、集まったデータからすると、ドニーの行動にはサイコパスの症状が表れつつあったようだ、と言うに留めておきます。ヘアのサイコパシーチェックリストで徐々に高得点を取るようになり、元々かなり低かった感情移入指数も輪をかけて下がっていきました。

上段縦軸:ヘアのサイコパシーチェックリスト改訂版(サイコパス性)
中段縦軸:感情移入指数(エンパシー)
下段縦軸:論理・認知能力
横軸:術後経過週

競争相手に陰りを

 ほぼ同時に一般的なパターンマッチングや論理テストの成績も上昇し始め、素数の計算に限定されていた高い数的能力が他の分野でも発揮されるようになりました。いきなりカレンダーの曜日を諳んじるようになり、微積分もたやすくこなしてみせたのです。残念ながら、その能力が最終的にどこまで広がっていたかを評価することは叶いませんでした。一一週目以降はだんだん研究スタッフに非協力的になっていき、かなり暴力的になることもあったからです。

並外れた利益。許容範囲の副作用

 これは実験開始から一六週間後、解剖の直前に撮られたドニーの写真です。歯肉線の後退、肌の蒼白さははっきりしていて見間違いようがありません(ドニーが死んでいるのも一因かもしれませんが)。あんぐりと開いた口は死亡時の状態が関係しています。彼はてんかんの大発作に酷似した激しい痙攣を突然起こし、それから死亡したのです。てんかん同様、この発作は危険な視覚刺激によって引き起こされたと思われます。しかし発作が始まったときの彼は、閃光やストロボ光の類を一切見ていません。そのとき眺めていたマルチメディアディスプレイは心理テストのために何度も使っていたもので、なんら支障はありませんでした。思い返してみると、発症前の数日間、彼はディスプレイを使うのを渋るようになっていました。どうも時間と共になんらかの反感が育っていたようです。当時はもちろん、その反感も増大する好戦性の欠かさざる一部であると理性的に捉えていましたし、彼を縛りつけて目を開かせ、強制的に画面を見せることがあんな劇的な結果に繋がると考える理由もありませんでした。後からはなんとでも言えますが、後悔先に立たずです。

税率区分ごとに世界を改善する

 さて、これがドニーに災難をもたらしたマルチメディアのパネルです。結局、問題は画像そのものではなく、画像を隔てる境界線の形にあることがわかりました。

 ここで見失わないでいただきたいのは、結果的に厄介な副作用が判明したとはいえ、この治療で現にドニーの自閉症は治ったということです。我々の予備的な成果を「失敗」とするのは不必要に悲観的です。なんとなればその副作用こそが、患者にとって致命的であることは認めざるをえないにしても、本日皆さまと共有させていただく重大な発見をもたらしたからです。

病理解剖検査結果
血液:
・深部毛細血管新生(血液貯留網)
・細胞内ATPの増大
・風変わりな血中成分(ロイエンケファリン)
・プリオン病への高い耐性
脳:
・肥大した扁桃体・視覚野
・神経系から隔離された前部帯状回
・網膜の反射性、受容体の混線

複雑な世界にしなやかな倫理を

 巨視的にも微視的にも、多数の興味深い所見が解剖で明らかになりました。毛細血管床が身体の深部に形成されていたのです。血管床は誰もが持っています。消化器系は血管に富んでおり、腸から血流へと栄養素の輸送を促進しています。ところがドニーの深部に形成された毛細血管の網は、これまで見たことないほど広範囲に及んでいました。

 ATP、アデノシン三リン酸の組織内濃度も高まっていました。ATPは細胞に動力を供給する化学電池で、ドニーが最後の日々に見せた異常な力とスタミナもこれで説明がつきます。

 血液検査では高濃度のロイエンケファリンが確認されました。クマやリスのような動物に見られるオピオイドペプチドで、冬眠に関係しているものです。

 またドニーの免疫系はクロイツフェルト・ヤコブ病のようなプリオン病に並外れた耐性を示しました。普通このような耐性は共食い文化圏にのみ見られます。共食い集団はプリオン病のリスクが高いためです。

 ドニーの扁桃体と視覚野は――これらは基本的にはパターンマッチングを担当する後頭部の部位ですね――本来よりもそれぞれ七パーセント、一三パーセントずつ肥大していました。前部帯状回と他の脳部位とのシナプス結合は通常よりもかなり少なく、脳の中核が新皮質から隔離されていると言ってもいいような状態でした。

十字架障害
左:通常の網膜 右:混線した網膜

あなたにふさわしい未来

 網膜にも非常に珍しい配線が見つかりました。人間の目には特化した受容細胞が並んでいることをご存じの方もいらっしゃるでしょう。光と影を同時に見ているときだけ発火するものもあれば、地平線など水平な線を見ているときだけ発火するものもあります。ドニーの場合、水平線に反応する受容体が垂直線に反応する受容体と混線するようになっていました。両方の受容体がある特定の状況で同時に発火すると――つまり、直角の交差が視角の三〇度以上を占めると、正のフィードバックが生まれ、視覚野に神経電気の過負荷がかかるのです。ドニーが画面上の十字架に拒否反応を示したのはこれが原因でした。

何が起きているのか……
・休眠遺伝子の活性化
・「イドの怪物」:思いも寄らぬ人類の分派

支障なし。保証なし

 いったい何が起きていたのでしょうか。最も有力な推測は遺伝子治療がいわゆる「ジャンクDNA」の一部を目醒めさせ、およそ数十万年にわたって発現することのなかった古代の遺伝子一式を活性化させてしまったというものでした。しかしこれは単なる偶然の不具合ではありませんでした。相互作用する祖先的形質は完璧なセットになっていて、消化器系から中枢神経系に至るまで全てに体系的な影響を及ぼしています。皆さんも「内なる獣」や「イドの怪物」といった古臭いクリシェはよくご存じでしょう。精神分析医もその点については正しく推測していたのかもしれません。ドニーはまったく別の生物に変貌する途上にあったと思われます。特異な亜種でさえあるかもしれない存在に。

人類のための受難者

 ドニーの死は研究にとって悲劇に他なりませんでした。死後の作業は近親者に強く拒まれました。悲嘆に暮れた両親は、息子の死の責任は私どもにあると考えているようでした。最善は尽くしましたが、さらなる研究のための献体は拒否されてしまい、訴訟の試みも、科学より母性を重視する司法制度の前には無力でした。最悪、遺体を強制的に放棄させる緊急命令をドニーの両親に出すこともできましたが、その頃には火葬が済んでいました。

ドニー不足
・ソシオパス
・高機能自閉症者
・統合失調症者
の供給源はいずこ?

あらゆる機会を逃さない

 それでも全てが失われたわけではありません。ドニーは決して唯一無二の存在というわけではないのです。彼の変質の原因となった遺伝子は集団間に広く分布しています。大抵は休眠状態にあるというだけのことです。さらに場合によっては自然に発現する遺伝子もあることがわかりました。ほんの少し例を挙げますと、サイコパス、自閉症、特定タイプの統合失調症は、少なくともある程度はこうした遺伝子の部分的な、ただし不完全で初歩的な形の発現から生じる見込みが次第に高まっていきました。ソシオパスやサヴァンはこの秘密の亜種についていくらか教えてくれます。ドニーは同時に発現する形質をいくつも見せてくれましたが、それでも運用可能なプロトタイプには今一歩及ばないところがありました。しかし、こうした形質を目醒めさせられるのであれば――遺伝子が他の人々の中に存在するのであれば、制御された条件下で充分な被験者を集められたら、どれだけ多くの発見ができるでしょうか。

カナダの研究助成機関
・自然科学・工学研究会議(NSERC)
・社会・人文科学研究会議(SSHRC)
・カナダ野生生物局(CWS)
・トランセンデンタル・ウェルネス財団(ウエスト・エドモントン・モール)
申請却下:「倫理上の懸念」

弱音を吐かないで

 いくつもの資金源に財政援助を求めました。自然科学・工学研究会議、社会・人文科学研究会議、国防省、ウエスト・エドモントン・モールのウェルネス財団。残念ながら、カナダの連邦政策は「科学に優しい」とは言えません。どこもこちらの申請を却下し、我々の人体実験プロトコルがいわゆる「倫理規範」に違反していると判で押したように言い立てました。そういうわけで我々は米国に財源を求めました。具体的にはテキサス州です。あそこは実験に適した条件の人が大勢、毎日のように投獄されているからです。

「健全なアメリカを目指すテキサス人」タスクフォース
資金援助の条件:
・胎児組織、未受精卵、精液の使用の禁止
・避妊、性感染症、「婚前の性的快楽」に関わる情報の流布の禁止
・公の場で進化論に言及する際は「科学的創造論」にも同等の正当性があると明言すること
助成承認

複雑な世界にしなやかな倫理を

 このときもいわゆる「家族の大切さ」を訴えるロビー団体の抵抗に遭いました。しかしながら胎児組織や未受精卵、精液を研究に使用しないことは契約で定められていました。調査の過程で避妊や性感染症に関わる情報の拡散を推進したり、進化論の普及に関わったりしないことも。最後の点は少々微妙なところでした。プロジェクト全体としては当然、ヒト科の進化に焦点を当てていたわけですから。しかし同時に、我々は特許が下りるまで公表するつもりのない機密情報について話していました。この点を理解したテキサス州は、死刑囚を自由に利用する権利を与えてくれたのです。死刑囚にはあらかじめ選別されたソシオパスや発達に障害のある方が何人も含まれていたことは、言うまでもありませんね。

 もちろん、対照群なくして適切な科学実験は行えません。実験群と比較するために、通常のベースライン集団が必要でした。地元メディアの控えめな広告ではボランティアはほとんど現れませんでしたが、またもやテキサスの刑事制度が味方になってくれました。病理学的なソシオパス傾向がまったくない受刑者が大勢いると判明したのです。それどころか有罪ですらない人もたくさんいました。それでも彼らは本物のソシオパスと同じ条件で投獄されていたため、実におあつらえ向きの対照群でした。

 以後、研究はとんとん拍子に進みます。未開拓の領域を進む上で避けられない挫折も味わいましたが、最終的に、この長らく失われたまま気づかれずにいたヒト系統樹の分枝の遺伝子の大部分を、活性化させることができたのです。率直に言いますと、実際に復活させることもできました――ベースラインの人間から、長らく音信不通だったいとこに近い存在を。彼らが何者でどこからやってきたのかを大いに学ぶことができたのです。

名前がなんだというの?
亜種か……
・ホモ・サピエンス・ヴァンピリス
・ホモ・サピエンス・ルゴシ
・ホモ・サピエンス・ウェドヌム
……症候群か?

なんと呼ぼうと大成功

 我々が扱っているのは短命に終わった人類の分派です。四、五〇万年前に現れ、ごく最近に絶滅しました。この生物を厳密にはなんと呼ぶべきか、分類学者の意見は分かれています。新種だと言う人もいれば、人類と交配していたのは明らかなのだから、完全な生殖的隔離があったわけではないと指摘する人もいます。少数のご婦人方はいかなる特別な地位も与えるべきではないと言います。彼らは基本的には一貫した奇形を有する人喰い人種であり、ダウン症の子どもを別の種に分類したりはしないのだから、と。ここでは中間を取って亜種と呼ぼうと思います。今ご覧いただいているのは、検討中の名称案の一部です。

際立った特徴
・長い四肢、高身長
・下顎骨の伸長
・犬歯の伸長
・タペトゥム・ルキドゥム(輝板)
・四色覚(赤外線対応錐体細胞)
・軸索の拡張

あなたにふさわしい未来

 外見上の特徴は実際にはごく微妙なものです。吸血鬼が現生人類から大きく分化するほど生き永らえなかったからですが、自然選択が表面的な類似を促進しているからでもあります。生きるために人間を狩るとき、獲物に溶け込めたらかなり助かりますよね。彼らと私たちとの最も根本的な差異は神経や消化器系、うまく化石にならない軟組織です。化石記録からこの生物を識別するのが難しい理由のひとつがこれです。もうひとつの理由は彼らが食物ピラミッドの頂点に立っていたこと、つまりピーク時でも非常に稀少な存在だったことです。

 にもかかわらず吸血鬼とベースラインには統計的に有意な差異があります。吸血鬼は人間よりも背が高く、四肢が長い傾向にあります。下顎骨、それからもちろん犬歯の伸長はわずかでありながら歴然としています。肉を噛み締め引き裂いて食らうための、古典的な「牙」ですね(ただ、有名な伝説で語られるほど目立ってはいませんが)。

 輝板については先にふれました。網膜の反射率が上がるので暗視が効きます。さらには四色型色覚も有しています。我々人類の目には三種類の錐体細胞しかありませんが、吸血鬼は四種類目を持っていて、近赤外線に適合しています。

今日、明日の問題を

 運動神経の軸索の密度は従来の人間のほぼ二倍、そのため信号伝達と反射が速くなります。吸血鬼は文字通りまばたきする間もなくあなたの目からごみを摘み取ってのけるのです。

さらに際立った特徴:
・脳梁の拡大
・介在ニューロン密度、グリア細胞密度の増加
・皮質フォールディングの増加
・オムニサヴァン性、強化されたパターンマッチング能力
・臨床的サイコパス性

どう切り取っても最上級

 さて、中枢神経系に進みましょう。ここは本物の差異が表れる場所です。吸血鬼の脳梁は人間よりも二〇パーセント大きく、大脳半球間の広帯域高速通信をもたらします。介在ニューロン密度、皮質フォールディングおよびラミネーションは通常値を遙かに上回り、特に視覚野で顕著です。吸血鬼は人間の基準を軽々と超えるパターンマッチング能力を持っています。『レインマン』のような映画やオリヴァー・サックスの著作から「サヴァン」を思い起こす方もいらっしゃるかもしれません。彼らは一度聴いただけで複雑なピアノの編曲を弾けたり、ある人の誕生日に当たる曜日を向こう千年先まで予測したりできます。必要とあらば、こうした計算は私たちにもできます。苦心してカレンダーを参照し、閏年の分を修正しつつ一年一年順番に取り組むのです。サヴァンはそれを常人よりも素早く行うだけとお思いかもしれませんが、それは違います。サヴァンは計算なんてしません。そこに答えを「導き出す」ようなプロセスはないのです。彼らは単に答えがわかっていて、完全な形で瞬時に提示してみせます。意識的に考える必要すらありません。

 非常に限定された形ではありますが、皆さんも同じことができます。私がビー玉を一個見せるとしましょう。何個あるかを知るために数える必要はありませんよね。二個でも三個でもそれは変わりません。数えるまでもない。見ればわかりますから。しかしビー玉を一〇個あるいは二〇個見せられたら、意識して数え上げる必要が出てきます。サヴァンは違います。得意分野ならサヴァンは全てが「わかる」のです。曜日、一〇桁の素数、何もかも。瞬時にです。

 一般的にサヴァンは吸血鬼の遺伝子型の一部がかろうじて機能する不完全な形で発現しているため、ひとつかふたつの断片的技能しか発揮できません。本物の吸血鬼はオムニサヴァンです。得意分野は既知の論理的パターンマッチングの全次元に及んでおり、その先にまで広がっています。吸血鬼は人間の水準からするととんでもなく賢いのです。これはいくつかの興味深い商業的応用に繋がるのですが、それについてはもう少し後でふれるといたしましょう。

 考えてみれば、生きるために人間を狩っていた吸血鬼が人間よりもずっと賢いのは当然です(ライオンがガゼルより賢いのと同じ理由です)。同様に、吸血鬼はソシオパスにならざるをえません。人間社会において、同胞に対する良心や感情移入の欠如は、企業から一歩出れば病気と見なされます。私たちがそのような状態を脱するのは二歳頃です(小さな子どもはみんなソシオパスなんです)。ところが吸血鬼にとってソシオパス的性質は生存に不可欠の形質なので、大人になっても残ります(猫と一緒です)。獲物に感情移入していたら飢え死にしてしまいますから。自然選択は「道徳的」吸血鬼を遺伝子プールから駆逐したのでしょう、スティーヴン・ジェイ・グールドと唱えるよりも早く。

ピラミッド・スキーム
絶滅のレシピ
捕食動物、草食動物、植物
・各階層間の栄養移動効率は10%
・獲物と捕食者の生産性比は10:1を上回る必要がある
・ところが吸血鬼と人間の生殖率はほぼ等しい

頂点のパフォーマンス

 獲物関連で吸血鬼が直面する問題はもうひとつあります。捕食/被捕食比率です。ある種が別の種を食べる場合は大抵、獲物となる種の数は捕食者より最低でも一桁は多く、繁殖も早いのです。理由は明らかで、食物連鎖を介したエネルギーの移動は効率が悪いからです。牛は一キログラムの牛を生むために一〇キログラムの草を食べなくてはなりません。一キログラムの人間を生むためには一〇キログラムの牛が必要です。そして当然、一キログラムの吸血鬼を生むためには一〇キログラムの人間が必要です。つまりどのレベルにおいても、下位の生産性が最低一〇対一の比率で上回るようにしないと、捕食者は自ら食糧を断つことになります。

 このため吸血鬼は窮地に陥りました。代謝率と生殖率が人間とほぼ同じだったからです。比率を変える余地もありませんでした。温血動物が一定のサイズに育って一定の活動を維持するには一定量のエネルギーがどうしても必要で、物理法則にはごまかしが利かないのです。

自然界のアンデッド
・トガリネズミ
・ハチドリ
・ゾウアザラシ
・北部のシマリス、リス
・クマ
・ハイギョ
・多くの外温動物

自然の薬箱をかっさらう

 とはいえ、活動レベルを切り詰めることはできます。先ほどドニーの血液はロイエンケファリン濃度が上昇していたと言いましたね。そう、冬眠ペプチドです。冬眠期間を延長することで吸血鬼はエネルギーと食糧を節約していたのです。ご存じの通り、鳥や哺乳類のような高等動物であっても冬眠状態は珍しいものではありません。トガリネズミやハチドリは代謝率が非常に高く、毎晩活動を停止しなければ飢え死にしてしまうでしょう。ゾウアザラシは深い休眠状態に入って海底で息を止めている時間を最大化し、通りかかる獲物を待ちます。クマやシマリスは食糧不足の冬を眠って過ごしてコストを削減しますし、ハイギョは丸まって四年から七年も死んだまま雨期が巡ってくるのを待ちます。

・摂食量削減
・個体数が回復する時間を獲物に与える
・忘れる時間を獲物に与える。

持てる者に健康を

 吸血鬼は何十年も活動を停止できます。ビーフジャーキーのようになるまで乾燥して、一般に言われるところのアンデッド状態になります。これには三つの利点があります。第一に、必要なエネルギーが劇的に削減され、獲物の繁殖と捕食者の消費の間に元々あった不均衡が是正される。第二に、捕食で大打撃を受けた人口を回復する時間を獲物に与え、食糧不足が過ぎ去るのを待つことができる。第三に、このような休眠期間が長引いて時が経つと、我々人間は自分が獲物であることを忘れてしまう可能性がある。人間は更新世の頃には随分と賢くなっていました。次世代に情報を残すくらい賢かったのですが、同時に懐疑に陥るくらい賢くもあったのです。サバンナで何年も暮らす中で夜に忍び寄る悪魔を見たことがなかったら、耄碌したおばあちゃんが炉端でぐだぐだと語る話を信じるわけがありません。吸血鬼のいない数十年を経た人間は、油断していた可能性が大いにあるのです。

 最後の点については議論の余地があります。この戦略を実行するために、吸血鬼たちはみんなで一斉にタイムカードを押して眠ったはずです。これはある程度の協調があったことを示唆していますが、吸血鬼は他人と交わらず競争心が強いことを考えると、ありそうにないことです。これについては後ほど詳しくお話しします。

 ともかく、血液貯留戦略はこうして始まったものと考えて間違いないでしょう。アンデッド化の一環として血液が重要臓器周辺に隔離され、末梢組織は欠乏に陥ります。ちょうど空気を得られないときのアザラシやクジラが酸素を配分するようにしてです。とても効率的だったので、時が経つにつれて活動中の吸血鬼も血液を隔離するのが普通になりました。ぞっとするほど蒼白い見た目は、実は燃費向上戦略なのです。表面組織の乳酸値が高くなりすぎたときや食事中、血液が肌へと流れ、顔は紅潮します(道徳的な人間よ、そばにいる吸血鬼が恥ずかしそうに見えたら、逃げなさい!)。ただ、これはたまにしか起こりませんし、長続きもしません(ちなみに、どうして写真の男はぞっとするほど蒼白くないのかとお思いかもしれませんが、それは被験者となった多くの囚人同様、彼がアフリカ系アメリカ人の子孫だからです)。

そもそも……どうして人を食うんじゃ?

間抜けなアイコン。真面目な問題

 それにしても、なぜ吸血鬼はシンプルに人間以外の獲物を当てにしなかったのでしょう。別に地球上で食べられる獲物が人間しかいないわけじゃないんです。なぜわざわざこのように過激で奇妙な適応を遂げてまで、我々人間を食べ続けたのでしょう。食糧をイボイノシシやシマウマに切り替えてしまえばいいだけなのに。もしかしたら切り替えたのかもしれません。しかし、彼らがそこまで苦労して人肉食に適応したのは、他の種からは得られない何か、生存に欠かせない何かを人間から得ていたからとしか考えられません。実を言うと、その何かを突き止めるために多くの受刑者を失いました。一年ほど前にアムネスティ・インターナショナルがプレスリリースを発表し、丸二ヵ月も死刑執行がなかったテキサス州を讃えていたことをご記憶の方もいらっしゃるでしょう。死刑が途切れたからといって死亡者がいないとは限らないことに、彼らは気づいていなかったのです。その年の死刑囚はほぼ使い切ってしまいました。

なぜなら……
PCDH-Yを持つのはヒト科だけだから。

間抜けなアイコン。真面目な問題

 そうして我々は真相を突き止めました。原因は、PCDH‐Yを合成する能力の二次的な喪失でした。中枢神経系の発達に深く関わるこのタンパク質を持つのはヒト科動物だけなので、吸血鬼の食事には人間の獲物が必要不可欠だったのです。

 さて。この非常に珍しい亜種は直近の近縁種を獲物にせざるをえず、その獲物自体も非常に珍しい(しかもほぼピラミッドの頂点にいる)存在です。彼らはただ盤面に残るために、進化的な後方宙返りをいくつもこなさなければなりませんでした。私たち人間を軽々と出し抜けるくらい賢かったのですが、最大の敵は私たちではありません。彼らにとって最大の敵は同等に賢く、同様に人間という限られた獲物に依存している存在でした。つまり最大の敵とは、他の吸血鬼だったのです。

 ふたりの吸血鬼をひとつの部屋に入れると、こうなります。

ベストを尽くし……

 獲物を巡って争う吸血鬼たちは単独で行動し、強い縄張り意識を見せ、敵意を向け合っていたのでしょう。弊社のマーケティング部門は吸血鬼のチームが団結して世界の諸問題を解決する様を夢想していましたが、自然選択が彼らに仲良く遊ぶことを教えなかったのは明らかでした。この写真は、協調路線で売り出そうという初期の試みが終わった際に撮られたものです。その方向はすぐに断念しました。

 この生物がどういう存在か、いくらか掴めてきたのではないでしょうか。ここからは彼らの出自を考えましょう。核酸のイントロンやミトコンドリアのマイクロサテライトからすると、吸血鬼が人類の系統から分かれたのはおよそ五〇万年前で、少数ながら有史時代の始まりまで生き残ったと思われます。彼らの起源を辿ると、X染色体のXq21.3ブロックにおける偏動原体逆位性の変異に行き当たりました。その変異はプロトカドヘリンを符号化する遺伝子の機能を変化させるものでした。PCDH-Yもプロトカドヘリンの一種で、それが中枢神経系の発達に重要な役割を果たすことは先ほど述べました。PCDH-Yは中枢神経系の発達の、いわば源流で発生するものでして、遙か上流における比較的小さな変化が相互に関連する種々のカスケード効果を生むわけです。そこには今日ご覧に入れた特徴が多く含まれています。

古代の治療。現代の利幅

 単独の変異が幸運にも一足飛びにあらゆる改善を生んだのだ、と言っているわけではありません。進化の仕組みはそんなものではありません。ここで言っているのは、源流における変異が中枢神経系の発達にあらゆる面で多大な影響を与え、山札が丸ごとシャッフルされた、ということです。降って湧いた大量の変異に自然選択が働きかけ、吸血鬼はその渾沌とした背景から比較的早く現れた可能性があります。

 しかしながら自然選択は何かを最適化したりはしません。「最適者生存」はまるでふさわしくない用語です。「最少不適応者生存」と言った方が正確でしょう。問題は任意の適応が最適解かどうかではなく、競合相手よりもうまくやれるかどうかです。全体的に見て吸血鬼はうまくやっていましたが、かといって設計上の欠陥がなかったわけではありません。既にふたつ、大きな欠陥を示しました。他のヒト科動物を食べざるをえない不安定な代謝経路、それからドニーの命を奪った欠陥、いわゆる十字架障害です。この障害のせいで、我々人類がユークリッド幾何学建築を発展させた時点で彼らの命運は決していました。四枚ガラスの窓や十字の梁などを備えた住居への立ち入りを吸血鬼は禁じられたはずです(全面窓枠だらけの現代のオフィスビルに復活した吸血鬼の反応を想像してみてください。とても見られたものでないことは保証します)。我々の先祖がその弱点にゲームの序盤で気づいたのは間違いないでしょう。十字架はキリスト教専属のアイコンではありません。先史時代から宗教的なシンボルとして広く使われています。今ならその理由もわかりますね。

最少不適応者生存
・自然における十字架の不在
・遺伝的浮動
・障害と結びついたパターンマッチング能力

犠牲なき救世

 そもそも、なぜそんな致命的な形質が集団に定着したのかと不思議に思うかもしれません。自然選択によってもっと早く取り除かれてしかるべきじゃないかと。答えは驚くほど単純。少なくとも当初は致命的な形質ではなかったのです。十字架に対する嫌悪も十字架の存在しない世界では全然不利になりませんし、自然の中に直角は多くありません。中立的に選択された形質が遺伝的浮動というシンプルなプロセスを介して小集団に定着することは、生物学を学ぶ大学生なら誰でも説明できるでしょう。今回の場合、形質は中立でさえありません。十字架障害の原因である混線は吸血鬼のパターンマッチング能力の源でもあり、それは自然選択が活発に促進していた形質でした――彼らの獲物が幾何学を発見する寸前まで。

 招かれていない家に吸血鬼は入れないという伝説はこの形質が発端だったのではないか、そんなふうに考えたくなりますね。正確には、吸血鬼は目をじっと閉じていないと人間の家に入れないと言うべきでしょう。攻撃に対して脆弱になるので、家の住人が彼らの不幸を願っていないときに限り、目を瞑るように言われていたはずです。

吸血鬼:伝説と現実
伝説 現実
・招かれていない家に入れない ・目を開けたまま家に入れない
・人間の血液を常食する ・血は「高級品」で、肉は他の動物から調達
・日光に焼かれる ・夜行性への適応による光嫌悪
・ニンニク嫌い ・捕食のためのプロパガンダ?
・変身/鏡に映らない ・スピード、隠蔽、擬態戦略の誤解?
・噛みついて仲間を殖やす ・レトロウイルスによる遺伝子の活性化?

伝説のパフォーマンス

 古今東西の吸血鬼伝説についても、暫定的な結論を導くことができます。吸血については未解決のままです。厳密に言うと吸血鬼はいわゆる偏性人肉食に近く、単に血を飲むのではなく人肉を食べます。しかし彼らが求めているのは特定のタンパク質だけであることを考えると、血液で需要が満たせる可能性は理論的にはありえます。ただし大量に飲む必要がありますが。ひょっとすると吸血は計画的な保全戦略だったのかもしれません。血を飲めば、生き残った貧血の被害者はそのうち回復して将来の食糧源になってくれるでしょう。一方で肉体を食べてしまうと、その犠牲者を一回しか味わえません。それに先ほども言いましたが、吸血鬼は他の種を食べることで必要な食事量の大半をまかなえました。彼らは人間よりずっと賢く、資源節約の美徳を理解できるくらい賢かったのです(ベースラインの人間にとっては今なお理解するのに苦労する概念のひとつですね)。

 光感受性について。色素性乾皮症になった被験者はいません(稀な光線過敏性皮膚疾患で、過去には吸血鬼の迷信と結びつける人もいました)。しかし吸血鬼は鋭敏な暗視能力を持っていて、瞳孔は光の強さの変化に私たちの目ほど素早く反応しません。彼らは簡単に雪盲になります。暗視ゴーグルを着けた人間が目の前を光で照らされるとそうなるように。日光に当たってボッと燃え上がったりはしませんが、よく言われる明るい光への嫌悪感の説明にはなりえます。松明を持った農民の集団は吸血鬼にとって大問題だったかもしれません。

 被験者は誰ひとりとしてにんにくあるいはヒガンバナ科の植物への嫌悪を示していません。もしかしたら吸血鬼が自ら噂を広め、獲物に誤った安心感を植えつけようとしたのかもしれません。庭の雑草が守ってくれるなら、わざわざ十字架を作ったりしませんよね。何もかも純粋なフィクションということもありえます。

 吸血鬼は飛べる、変身する、鏡に映らない――数あるこの手の伝説も、大部分がフィクションと思われます。吸血鬼はしっかり鏡に映ります。なにせ真っ先に試しましたから。ここで思い出していただきたいのは吸血鬼が持つ人間以上の素早さ、高い知性、並外れたパターンマッチング能力が、擬態して溶け込むのにとても役立ったであろうことです。闇の中へ薄れて消えていくように見えた、背景に輪郭が紛れるような身のこなしを習得していた、というのはいかにもありそうです。そうやって姿を消す姿が、そうですね、驚いて飛び立つ動物やらと結びついて、原始的な人間にはなんらかの変身が起きたように思えたかもしれません。

 生殖について。古典的な伝説だと吸血鬼は犠牲者を吸血鬼化することで仲間を増やします。修正主義者とホラー作家は、唾液から血液へと移る性感染症のような、ウイルス感染症としての吸血鬼というアイデアを弄んできました。もちろん生物学的に考えると、このアイデアにはいくつか問題があります。食事のたびに吸血鬼が増えていくと、ほどなくして獲物はみんな吸血鬼になり、あっという間に飢餓に陥るでしょう。でも、見かけほどありえないアイデアではないんです。遺伝子の水平伝播は自然においては珍しくもありません。ある微生物は他の種のDNAの運び手として働き、宿主から別の宿主へ伝播させることが知られています。いずれにせよ、捕食者と獲物は同じ遺伝子をたくさん共有していることがあるようです。その遺伝子を活性化させる触媒のようなものさえ伝播すればいいのかもしれません。それに、吸血鬼と人間は完全な生殖的隔離に至ったことがありません。主要な吸血鬼遺伝子がヘテロ接合的に顕性であればなおさら、異種交配で吸血鬼の子孫が生まれない理由はないのです。これは〈亜種ではなく症候群〉派が展開する最も強力な主張です。アヒルのように歩き、アヒルのようにガアガア鳴き、アヒルと交尾するのであれば、たとえ見た目がヒメコンドルであろうとアヒルに違いない、というわけです。

吸血鬼:伝説=現実
・人間を捕食する
・アンデッド状態の休眠/並外れた長命
・超自然的な膂力とスピード
・十字架を著しく嫌悪する

伝説のパフォーマンス

 こうした吸血鬼の伝承には疑いなく生物学的に真実と言える側面があることは忘れないようにしましょう。捕食者としての習性、スピードとパワー、不死と長命。それからもちろん、吸血鬼の血統の終焉を招いた十字架障害も。彼らは人間の伝説に自らの存在を刻むくらいには生き永らえましたが、生命体としては終止符を打たれてしまっています

 果たして、本当にそうなのでしょうか。

*[また、吸血鬼の絶滅がいわゆるトバ事変のボトルネックを解放した可能性もあります。七万三〇〇〇年前、人類は大部分が死に絶え、およそ一万年後まで人口は非常に少ないままでしたが、その時代に人類は今日まで続く異例の拡大を開始したのです。このボトルネック効果は伝統的にスマトラ島の大規模噴火とそれに起因する火山性の冬のせいだとされてきました。とはいえ、控えめに言っても面白いタイミングです]

複雑な世界にしなやかな倫理を

 この図形はご存じですよね。ネッカーキューブとルビンの壺、いわゆる多義図形の代表例です。ふたつの顔が見えたり、ひとつの壺が見えたり。影のついた面が後ろに見えたり、前に見えたり。視点はころころ入れ替わり、一方を見たと思えば、今度はもう一方を見ている。

 吸血鬼は一度に両方の視点で見ることができます。ころころ視点を切り替えなくていいんです。神経学的に人間にはできないことが、吸血鬼にはできます。同時に複数の世界観を持つことが。そのため、私たちには矛盾だらけに見えるものや一歩ずつ解明していかなければならないことを、一瞬で把握できます。量子力学を考えてみましょう。私たち人間はプランク長以下に引きずり込まれるとなれば幼児のように駄々をこねずにいられませんし、真理を無理やり頭に押し込むにも複雑な数式が必要で、そこまでしても真理はまるで要領を得ません。観測するまで何も現実ではないだの、原因に先立つ結果だの、非物質的な状態で死んでいると同時に生きている箱の中の猫だの。数学は結論を受け容れよと迫りますが、それは我々が現実について知っている全てに反しています。しかし吸血鬼は量子力学を直観で理解しています。彼らにとっては当然の理屈なのです。

未来の約束
職場の吸血鬼
・人間には捉えきれない様々な問題を解決しうる
・ソシオパスは現に企業社会で高い生産性を示している
・十字架障害 vs. 抗ユークリッド神経剤:安全装置内蔵!
より良い明日のため、昨日の悪夢を飼い馴らす

支障なし。保証なし

 この存在から得られる利益を考えてみてください。政治、環境、テクノロジー、さらには哲学といった人間の精神には扱いにくい多くの問題も、吸血鬼にとっては児戯に等しいと証明されるかもしれません。コンピュータにさえその手の問題解決能力の見込みはありません。なぜならどんなに多くのコンピュータをネットワークで繋げ、量子的だったり古典的だったりする要素を投入しても、結局は人間に設計された機械であることに変わりはなく、それゆえ人間のものの見方が持つ限界や制約が反映されているからです。対照的に、我々は吸血鬼を一切設計していません――設計したのは進化です。我々は彼らを復活させようとしているだけです。

 吸血鬼が現在社会に馴染めるのかと疑問に思う方もいるかもしれませんが、思い出していただきたい、現代のソシオパスは事実上、人間の身体に発現した部分的な吸血鬼であることを。そしてビジネス、産業、医療の各分野において、ソシオパスは最も卓越したプレイヤーです。容赦のないプラグマティズム、良心の欠如。また、現代の企業社会で成功するには感情移入が欠かせないなどとのたまう、ふわふわした感傷とも無縁です。そもそも法人たる企業それ自体が、DSM‐Ⅳのソシオパスの診断基準を全て満たしているではありませんか。そんな環境の中では吸血鬼が繁栄することを我々は知っています。なぜなら、紛れもない現実として、彼らは既に繁栄しているからです。

 もうひとつ生じる疑問は、吸血鬼が問題をなんでも解決できるとして、そんなことをする義理が彼らにあるのか、というものです。吸血鬼が進化したのは人間を食べるためであって、宿題を手伝うためではありません。心配性のグリーンピースやシエラクラブは、蘇らせた吸血鬼に人類が絶滅させられる終末のシナリオを早くも吹聴し始めています。私も、こんな怪物を安全装置もなしに蘇らせたくはないという意見を認めるにやぶさかではありません。

 しかしそれでも、吸血鬼は人間にとって最も心強い味方です。なぜなら吸血鬼は自前の安全装置を内蔵しているからです。かつて吸血鬼を苦しめた十字架障害は、現代の直角に満ちた都市環境においてはずっと早く彼らを絶滅させてしまうでしょう。実はひとつだけ、ちょっとした刺激で起こる痙攣を防ぐ方法がありまして――これから少し企業秘密を明かしてしまいますが、分子の特許は取得済みです――それは厳密な投与計画の下に、抗ユークリッド神経剤という薬を与えることです。弊社が開発したこの薬は十字架障害による発作を抑え、大都市の中でも吸血鬼が通常通り活動できるようにします。そして、この薬がなければ彼らは死にます。絶対に壊れない短い鎖に繋ぐわけです。彼らはその有り余る知能で、人間の利益に資するのが自分たちにとって最善の利益になるという程度のことはたやすく理解します。

 知性よりも感情を重視する一部の人々はドニー・マースに降りかかった事態を犯罪と呼ぶでしょう。それは間違っています。彼の身に起きたことはただの悲劇であり、それは一筋の希望をもたらす悲劇でした。本当の犯罪は我々が嫌悪感に負けてこの機会に背を向けたとき起こるのです。世界を今以上に豊かで素晴らしく、安全な場所にさえできる機会に。ドニーは我々の前進を望むでしょうし、それはドニーの、世界中の子どもたちのためにもなります。こうしているうちにも商業用吸血鬼の第一陣は胎動しています。FDAの承認も一ヵ月以内に下りるでしょう。万が一承認が下りなかったとしても、既に第三世界の多くの国々が、有利な税制や規制条件の下で研究が行えるようにと支援を提案してきています。人類にとっての潜在的利益は計り知れません。そして適切な安全装置がある以上、失敗は実質的にありえないのです。

 御清聴、ありがとうございました。

Launch Date: Mar. 4, 2024

Last modified: Mar. 4, 2024

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