フラクタル
(あるいは、レーガン、ゴルバチョフに対宇宙人戦支援を明言)

 不法侵入? 不法侵入だと? 吊り目のよそ者のクズが思い上がるな、俺はここに住んでたんだ!

 いつからこうしたいと思っていたのだろう。いったい何年、奴らを憎み、この拳が連中の顔を人間未満の形に粉砕する様を夢見てきたのだろう。思い出せない。怒りの根は深い。ずっと昔から共にあった。だが無力だった、今このときに至るまでは。指の関節の痛みが、名誉の印のようにかすかに脈搏つ。

 寒い。

 怒りは消え失せ、泥や辺りに散らばる木材と石材の暗い山にいつのまにか吸収されてしまった。周囲にはほとんど焦点が合わない。その形状は変わり続け、莫迦でかく角ばった醜悪な影が四方八方で揺れている。土地の前に立つ標識だけが、あいつがずっと指さしていた標識だけが、動くことを拒んでいる。

 闇の中にあいつがかろうじて見える。ほんの数メートル先だが、影はあまりに黒く、少しも動きがない。もし殺していたらどうなる。もし――

 いや。ちょっと動いた。大丈夫だ、殺してなかった、死んでないんだ――

 しかしだ。このまま泥の中で死んだらどうなる。

(死んだところでそれがどうした。こいつらはいくらでも湧いてくるんだ)

 いや。本気でそう思ってはいない。こんなことをやらかしたなんて信じられない。だって、もし、もしあいつがここで死んだら、もし――

 生きていて、こちらを特定したら?

 二歩、前へ進む。さらにもう二歩。よし、あいつはだいたいこの辺でこっちに気づいて、それからあっちの方へ移動してわめき出して――

 顔を見られたはずはない。近寄ってきたときだって暗すぎてシルエットしか見えなかったはずで、それからあいつが目の前に来て、それで――

 逃げられる。逃げられるぞ。クソッ、なんだってこんな――

 大丈夫。どうせここは建設現場だ、タイヤ痕も何百本もの轍に紛れてしまうだろう。最寄りの家は一ブロック以上離れているし、袋小路で灯りもない。ついてる。目撃者はいない。

 車は一瞬の迷いもなくなめらかに発進する。急ぎ街へ向かう。

 なんだか全て計画していたかのようだ。ずっとこの瞬間をリハーサルしていたような感覚がある。浄化された。殺さなかったことにほっとして、食いしばっていた歯が緩み、重い胃の緊張が和らいでゆく。なんというか、自由だ。幸せではないかもしれない。それでも、とうとう心に従って行動を起こしたことで、不思議と安らかな気持ちに包まれていた。

(あいつがあそこで死んだら、どうなる)

 次の電話ボックスで止まろう。救急車は匿名の通報にも応えるはずだ。それから、靴をマットに載せておくよう注意しなければ。念のためだ。家に着く頃ジョアンはまだ起きているかもしれない。道中でガソリンスタンドに寄って、きれいにすすぐとしよう。

 立派な窓の、立派な眺め。昔から森は好きだったが、こんなにたくさんのリスや鹿や鳥が、あんなに狭い土地に集まっているのは初めて見た。だが、リアリズムにけちをつけられる身だろうか。ロブソン通りを見下ろす二〇階で熱帯雨林を眺めているというのに、細部など気にしてどうする。それに、もう雨林ではなくなっている。高山の草原だ。社員の女が窓台のボタンに触れると、世界が一変する。

 部屋を横切る。岩とヒースが見えてきて、窓を越え、反対側で影に沈む。近くに寄ると視野が広がった。ガラスに鼻を押し当てると全軸に沿って一八〇度を三次元で見ることができる。すぐ外で咲き乱れる花々がそよ風になびく。

 だが女がスイッチにふれると世界は停止し、もはやどこにも窓はなく、ただ灰色の薄型モニタと模造の窓台があるばかりだった。

「これは、素晴らしいな」私は感心の声を漏らす。

 女が誇らしさを隠し切れていない声で言う。「とても画期的ですよね。薄型モニタは他にも色々ありますが、違いは歴然としています」

「どうやっているんですか。ある種の三次元ビデオテープとかですか」

 笑顔が広がる。「全然違います。使っているのはフラクタルです」

「フラクタル」

「ええ、カレンダーやコンピュータのポスターで見かけるサイケデリックなパターンです」

 なるほど。カオス理論と関係があるものか。「でも具体的にどういう――」

 女が笑う。「実は私、実演するだけでして。大学の人間にソフトウェアを作っていただいたので、その方なら詳しい話をしてくれますよ。読者が興味を持つとお考えでしたら」

「興味があるのは私ですよ。読者にも興味を持たせられないようじゃ、記者は名乗れない」

「そういうことでしたら、名前をお教えしますね。先方にはご用件をお伝えしておきます。来週中には何かしら準備していただけるんじゃないかと思います」

 名刺の裏に名前を書き留め、手渡してくれた。ロイ・チャンと書かれている。途端にきゅうと喉を締めつけられたように感じる。

「最後にひとつ」と私は訊く。「これを買えるのはどんな人なんでしょう」

「収益モデルは小売値で三万くらいです」と答えが返る。「ロビーなどにひとつ掛けたいという企業は多いですね。弊社は高所得者層への販売も希望しております」

「今どきそんな人がいますかね」

「きっと驚くことと思います。香港の流入以来、この手の製品を買える金銭的余裕のある人は急増しているんです」

 可哀そうに。市場調査をしていないな。あるいは裕福な顧客が自然をどう捉えているか正確に把握しているのかもしれない。富裕層にとって自然は抽象芸術だ。おそらく香港にはぺんぺん草も生えていないのだ。ペントハウスの窓から木が生えて部屋中に酸素を吐き散らしたとしても、木がなんなのかもわからない奴が大半だろう。

 どうだっていい。数年もすれば、我々だってわからなくなる。

「救急受付です」

「あー、その。先日そちらに――暴行の被害者が入院してないかなと思いまして」

「申し訳ありません、もう少し具体的にお願いします。暴行の被害者ですか」

「ええ、あー、誰かが頭の怪我で運び込まれていませんか、東洋人の――」

「なぜそんな」不意に語気が鋭くなる。「通報されていない暴行をご存じなのですか」

「あー」電話を切れ、この莫迦! これじゃどうにもならない! 「ちゃんと通報されているはずですよ、救急車に乗せられていましたから。かなり具合が悪そうで、あの人どうなったかなと思っただけでして」

 いいぞ。これでいい。かなりそれっぽい。

「なるほど。現場はどこですか」

「ノースヴァンクーヴァーです。あの辺りは、あー、カンバーランドだったかな」

「被害者のお名前はご存じないでしょうか」

「あーいや、さっき言ったように運ばれていくのを見ただけで、ただ気になって――」

「……ご親切にありがとうございます。ですが個人情報をご家族以外の方にお伝えすることはできませんので――」

 あのなあ、お嬢さん、こっちはあいつの容態を知りたいだけで国家機密の奪取なんかに興味はないんだ! 「それはわかりますが――」

「なんにせよ、そちらの説明通りの患者は当病院におりません。カンバーランド、でしたか」

 逆探知しているのかも。ありえる、救急病院の回線は常時追跡されているのだろう、きっと誰でも同じことをするはずだ、きっと――

「あの。カンバーランドとおっしゃいましたよね」

 電話を切る。

 暗い寝室へ忍び込むとジョアンが身動ぎした。「何か面白いニュースは?」

「特にないな」とりあえずノースショアに現れた謎の通り魔の報道はない。その方がいい。さすがに死体が出たら言及されるはずだ。

 私は手探りでベッドへ入る。「ああ、マスキーム族が大規模な土地要求デモを計画してるってさ。道路封鎖とか諸々を」そしてジョアンの背中に寄り添う。

「俺たちを心底嫌ってるんだろうな」とジョアンのうなじに言う。

 ジョアンが寝返りを打ってこちらを見る。「誰が。マスキームが?」

「そうだよ。俺だって嫌いさ」

 ジョアンが嫌そうに言う。「気を悪くしないでほしいんだけど、あなたみたいに考える人がたくさんいたらどうしようって、心配でしょうがないわ」

 こういう言葉を賛辞として受け取るのには慣れていたが、ジョアンが褒めるつもりで言うことはほとんどない。「でも、故郷と文化を奪われるのが憎む理由にならなかったら、何が理由になるのかわからんよ」しばらく間を取り、思い切って言う。「それがあいつらをレイシストにするんだと思う」

「もう。恥知らずね」暗くてよく見えない指をジョアンが振る。「人種差別の被害者が人種差別の罪を犯してるなんてありえない。そんなことをほのめかすなんて、あなたはレイシストに違いないわ。ちょっと人権委員会に電話してくる」代わりにキスを寄越す。「実はくたくたなの。忠告だけで済ませてあげる。おやすみ」そう言って背中を押しつけてくる。

 だが、まだ眠る気になれない。声に出して言わねばならないことが、いわく言いがたい深刻な恐怖を覚えずには考えられないことがある。ジョアンに隠し事はしたくない。三日が経ち、沈黙は壊疽のようにこの身に広がっていた。

 それでも打ち明けることはできない。全てがぶち壊しになるかもしれない。ジョアンが赦してくれる望みに賭けるべきだろうか。

「今日デンマンで落書きを見たんだ」と声に出してみる。「白人はヴァンクーヴァーから出ていけって書いてあった。カナダはアジア人のものだって」

 ジョアンの背中は呼吸のリズムで穏やかに動いている。ぶつぶつと枕に何か呟く。

「なんて?」

「どこにでもクズはいるって言ったの。寝なさい」

「それが真実かもしれないな」

 ジョアンが降参の呻き声を上げる。今夜どうしても眠りたければ、私の話を最後まで聞かなければならない。「何がどう真実なの」ため息を漏らす。

「俺たちのための場所は残っていないかもしれない。今日バスに乗ったけど、中国人だらけで何を言っているのかもわからなかった――」

「気にすることないよ。あなたに話しかけてたはずないし」

 そうじゃない、そう言いたかった。奴らには話す必要がないんだ。向こうからすれば俺たちはどうでもいいんだ。この国の趣ある価値観も美意識もノースショアと同じように簡単に買われてしまうんだ。それを不安に思う権利もないって言うのか。自分たちの生き方を心配したらレイシストだとでも。許されていないって言うのか――

 ――クズどもを素手で殴り殺すことさえ――

 何かがいる。

 ふたりの間の暗闇に横たわるそれは目に見えず、ジョアンが今すぐ寝返りを打っても私よりよく見えることもないだろう。だが、なぜかわかる。それはまっすぐこちらを見据え、ニヤニヤと笑っている……。

 ジョアンが黙ったまま上体を起こす。こちらの迂闊な思考が引金を引いてしまったかのようだった。振り返り、ふたりの間にあるものにためらいなく顔を寄せてくる。顔が不可視のニヤニヤ笑いを突き破り、ジョアン自身の笑顔と置き換わる。

「黒人女と暮らしてなきゃあ」ジョアンが得意のジェマイマおばさん口調で話す。「あんたやっぱしレイシストの腐れ白んぼさ、と言うところよ」私の鼻をつまむ。「ともかく、ぐっすり寝たらいいと思う」こちらの胸に片腕をかけて寝転がる。

 またふたりだけになる。隣室で眠る娘のショーンが、小さく咳をする。

 拳がかすかな記憶にズキリと痛む。

 あいつにも家族がいたのだろうか。

 どこの誰だか知らないが。

 ――すまない――

 ロイ・チャンと会う時間が迫っている。かれこれ二時間ほど繁華街をうろつき、ぬかるむ雪のために緩慢な朝の交通を眺め、移住者の数を数えていた。我々の横を急ぐ連中は混じりながらも交わらず、不慣れな寒冷気候にうなだれている。互いに話すこともあれば、この国の言葉を話すこともあるが、大抵は黙っている。

 私には見向きもしない。

 昔からこんなふうに感じていたわけではない。それはほぼ間違いない。我々こそが住民だった時代はあったし、人種差別がどんなものかも知っていた。それはリアウィンドウに銃架を備えたフォードのピックアップに乗ってやってきた。一時停止標識に窓からビール瓶を投げ、何を考えることもなく、わけのわからない言葉をわめいていた。

 今や統計と外国人恐怖症は同衾している。毎日飛行機が着陸し、バランスが少し変わる。アジアの富が周囲に湧き、瞬く間に銀行から銀行へ流れ、環太平洋上空の通信衛星から跳ね返って落ちてきて、我々を埋葬する。誰だって不安になる。全世界が東へ傾いていくのだ。

 だが、こうやって憎むことを誰に教わったわけでもない。自然とこうなっただけだ。

 自分は狼男だったと気づくのは、こんな感じなのだろうか。

 一九九五年度国際コンピュータグラフィックス会議の記念ポスターが、ロイ・チャンの研究室の壁に貼られている。その下でカントリーミュージックを奏でるトランジスタラジオは、吊り鉢に青々と植わる巨大ボストンタマシダで半ば隠れていた。どうやって世話しているのだろう。私がこういう植物を買っても、いつも一週間ほどで枯れてしまう。

 デスクは大量の書類と見たこともないほど大きなカラーモニタに埋もれていて、ほとんど見えない。画面上では渦巻銀河が回転している。まるで虹色のシャボン玉が想像を絶する精度で配置されているかのようだ。

「それが」とチャンが言う。「フラクタルです。美しいでしょう」

 訛りはまったくない。こちらと同じように話している。

 チャンがキーボードの前に座る。「よく見ていてください。倍率を上げて、ひとつのノードだけを見てみます。言うなれば、銀河の中のひとつの星です」

 画像がぼやけ、再び焦点が合う。画面上で渦巻銀河が回転している。

「同じじゃないですか」

「完全に、というわけではありません。多くの差異がありますが、全体的にはとても似ています。ただし先ほども言ったように、銀河の中のひとつの星を見ているんでです」

「でもそれは全体で――」

「では、この銀河の中の星にズームしてみましょう」

 画面上で渦巻銀河が回転している。

 ピンときた。「いわゆる無限後退ですか」

 チャンが頷く。「正しくはスケール不変性ですね。顕微鏡、望遠鏡、何を使って見ようが関係ありません。どんなスケールでもパターンは本質的に同一なのです」

「では、どのスケールなら自然の眺めを出せるんですか」声には緊張の欠片もない。私は微笑んですらいた。

「全スケールで。フラクタルはごく単純な方程式から生まれます。秘訣はそれを延々繰り返すことです。ある試行から得られた出力を、次回の入力に使うんですよ。画像一式を保存する必要はありません。わずかな方程式を保存して、コンピュータに一歩ずつ描いてもらえばいい。ほとんどメモリにコストをかけることなく、信じられないほど精密な出力を得られます」

「つまり単純な方程式の束で、自然を画面上に複写できるってことですか」

「いいえ。自然こそ単純な方程式の束だと言いたいのです」

「証明してください」微笑んだままチャンに告げる。つかのま思い描いたのは、影に覆われたチャン、制裁を躱そうと虚しく掲げられた両手、血に塗れてぐちゃぐちゃの顔。

 イメージを打ち消そうと頭を振る。こびりついて離れない。

「――木の形ですね」とチャンが語っている。「幹は枝に分かれ、その枝はもっと小さな枝に分かれる。次は小枝。どのスケールにおいても、パターンは一緒です」

 木を想像する。あまり数学的には思えない。

「あるいは肺です」とチャン。「気管、気管支、細気管支、肺胞。あとは循環系とか、結晶の生成も。単純さを増しながら、同じことが無数の異なるスケールで同時に起きています」

「つまり木はフラクタルで、結晶もフラクタルですか」

 チャンが首を振って満面の笑みを見せる。「自然が、生命がフラクタルなのです。あなたもフラクタルです」改宗者の雰囲気をまとう。「画像圧縮技術なんて大したことありません。気象学への応用や――少々お待ちを、医療センターでの仕事をお見せしましょう」

 チャンがマシンをいじるのを待つ。ラジオの音声が沈黙のひとときを満たす。視聴者参加型番組だ。前庭で車三台の玉突き事故が起きたと女性が司会に愚痴っている。今朝、丘の上に住む隣人が私道から雪を洗い流すために園芸用ホースを使ったらしい。水は丘を下って凍り、道路を傾斜二〇度のスケートリンクに変えた。

「香港から来た人は、気候は世界中どこも一緒だと思ってるんですよ」女性がぼやく。

 司会は何も言わない。言えるわけがない。同情を示せばレイシストの烙印を押されることになる。いずれそうなるだろう。歯に衣着せずに物を言うかもしれないし、編集部と検閲部も司会の男を潰し切れていないかもしれない。やっちまえ、くそったれ、それこそ俺たちみんなが考えてることだ、言ってやればいい――

「どうしようもないアホですね」とロイ・チャンが言う。

 私はぱちくりとまばたきをする。「え?」

「実際はごく少数です」とチャン。「あんなのはスコッチのオン・ザ・ロックでしか氷を見たことがない一部の間抜けだけですよ。うちにもその手の隣人がいましてね、ふざけた一家が二年前に香港から越してきてトラブルだらけだ。去年の夏は生け垣を刈られました」

「どうしてそんな」チャンがこんなふうに自分の同類を裏切るなんて、意外だった。

「妻は園芸に凝ってまして、何年もかけて敷地に生け垣を育てていました。見事なものでしたよ。高さは一五フィートほどで、形も完璧に整えて。ある日家に帰ると、連中は人を雇って全てチェンソーで刈らせていました。生け垣は家に悪い気をもたらすから、と言ってね」

「訴えたりはしなかったんですか」

 チャンが肩をすくめる。「そうしたいところでしたが。ラナがさせてくれなかったんです。もうトラブルは御免だって。私だったら、喜んで奴らを海外へ送り返してやったのですが」

 私は考えをまとめる。「でもあなたは、その、出身は――」

「この国で生まれました。五代目です」

 こっちはたったの三代目だ。

 不意に、チャンの変わった瞳の奥に相通じる点が、共通の恨みが見えた。いったいどんな気分だろう。あの肌を、髪を、数十年前から受け継がれてきた遺産をまとって人生を送るというのは。連座の誤謬に苦しめられてきたロイ・チャンは、きっと私以上に奴らを憎んでいるのだろう。仲間と言ってもいいくらいだ。

「さて」とチャンが言う。「これがお見せしたかったものです」

 数秒が過ぎる。新たにモニタが映し出したものは赤みを帯び、不定形で、どことなく威圧的だ。成長している。歪な染みが仮足をランダムに生やしながら画面の半分を覆っていく。

「これは?」

「癌腫です」

 予想通りだった。

「癌もフラクタルです」とチャン。「これは肝臓癌のモデルですが、成長パターンはどの種類にしても同じです。成長過程を探っているところなんですよ。滅ぼすにはまず相手をよく知らなければなりませんからね」

 私は広がる癌を見つめる。

 ヒヒだ。ナショナル・ジオグラフィックと公共放送の提供で、ヒヒがテレビの中を走り回っている。文明化の進んだ霊長類たる我々は、少し距離を置いて座って見ている。活動過多の四歳児、ショーンは絨毯の上で跳びはねているが、ジョアンと私はカウチを選び、テイクアウトした四川料理で埋まるコーヒーテーブル越しに、現実世界に残されたものに目を凝らす。

 中央アフリカの森の樹冠では政変が起こっていた。新たなアルファオスがふんぞり返って歩き回る。群れを巡り、メスや子どもを調べている。とりわけ子どもを念入りに。一匹ずつ順番に子どもを訪れて、大きく毛深い手を頭に走らせ、穏やかな家父長的態度で身体を嗅ぎ、親密度の徴を、紛れもなく血筋を語る香りを小さな身体に求める――だめだ、こいつには俺の遺伝子がない。バチンと叩かれた赤子の頭はパドルボールのごとく揺れ、マッチ棒のような腕にポキリと新しい関節が生まれて、花形男子学生は絶叫する母親から幼子の死体をかっさらって放り投げる。死体は二〇メートル下の林床へ真っ逆さまだ。

 いつのまにかショーンが夢中になっていた。ジョアンが疑わしげな視線を寄越す。「これ、食事中に見るものではないんじゃない……」

 生命は必ずしもこのように不寛容とは限りません、とナレーターが説明を急ぐ。このオスは非嫡出子を守って死ぬことになるでしょう。外敵から、捕食者やライバルの群れから、子どもたち以上に関係の乏しい相手から。忠義は同心円状に広がる。汝の同類を他者から守れ。汝の親族を同類から守れ。汝の遺伝子を親族から守れ。強い敵がいなければ、弱い敵を滅ぼせ。

 不意に、カチリと音が聞こえそうなくらい、世界の全容に焦点が合う。私は驚きに周囲を見回す。他の誰も変化に気づかなかったらしい。表面上は何も変わっていない。家族はたった今下った啓示を認識することなく、のほほんとしている。

 だが私は理解していた。これは私の欠陥ではなかったのだ。

 底まで下れば、我々が実行しているのは同じプログラムだ。各細胞が完璧な設計図を保持している。枠組み、配管、配線図。糖と塩基から成る螺旋状の糸にそれら全てが詰め込まれていて、我々がいかにあるべきかを語っている。焚き火を囲んで口ずさむ歌で四〇〇万年の進化を帳消しにできたつもりでいるとは、なんと無知で愚かで傲慢なことか。人はお題目を唱える。道徳的に間違っている、政治的に正しくない、社会に受け容れられない。だが遺伝子は騙されない。遺伝子は我々より遙かに賢い。遺伝子は知っている。我々は敵と対峙してきた、あいつはこちら側ではないと。進化は今なお変わらず我々に自衛を促す。

 この敵意は生来の配線に組み込まれたものだ。設計図が憎む対象を求めているのであれば、私が責められるいわれもあるまい。

 なんだこれは。また餌を変えたのか。

 金の力でリテラシーを磨かせるのは、楽な仕事ではないだろう。毎週のようにロビーに設置される新しい展示は、通行人でもガラス越しに見ることができる。カラフルな新作は大衆を図書館へ誘おうとしていた。

 生憎、ここにはまったく別の目的で来た。とはいえ新聞閲覧室はいつでも開いていることだし、今日の供物はいつもより多少カラフルだ。見てやるとするか……。

 赤や黄色、黒や白の粗雑な棒人間が手を繋いで輪になっているクレヨン画だ。プロが作ったとはいえ露骨さは劣らないポスターは、中国人と白人がヘルメットを被って笑い合う様を描いていた。空気は砂糖のような甘さと光でいっぱいだ。糖尿病の兆しが感じられる。

 展示に寄ると、目立つ署名があった。「後援:ブリティッシュコロンビア州人権委員会」

 こいつらは気づいている。世論調査や指標から高まりつつある反発を感じられるから、できる限りの方法で抗おうとしているのだ。

 展示場をぶらつく。教会に入った吸血鬼の気分だ。だがここのシンボルは弱い。にんにくも十字架も絶望を漂わせている。こいつらは負けつつあり、そのことを理解している。こんな貧弱なプロパガンダでは我々の気持ちを変えられはしない。

 だいたい、こちらの思惑を気にするのはなぜだ。数年後には取るに足りなくなるのに。

 すぐそばの掲示板の隅に新聞の切り抜きが留めてある。一九八六年のグローブ・アンド・メイル紙だ。「レーガン、ゴルバチョフに対宇宙人戦支援を明言」と見出しにはある。

 本物なのだろうか。

 そのようだ。霊感を授かった当時の大統領レーガンは、ゴルバチョフに対し本当にそう語ったらしい。もし地球が宇宙人の脅威に曝されたら、あらゆる国が団結し、イデオロギーの違いを忘れるだろうと。どうもレーガンはどこかその辺に道徳があると思っていたようだ。

「レーガンが珍しく知性を見せた発言のひとつです」そばに立つ誰かが言う。振り返ると、妙に着飾った女がいた。左右の襟にブリティッシュコロンビア州政府のピンバッジとボタンがついている。ボタンに描かれているのは文字に囲まれた地球だ。〈私たちはこの星の仲間〉。

 だが、少なくともこちら側の人間ではある。

「レーガンの言う通りだ」と私は応じる。「全人類が脅かされるとなったら、国同士の喧嘩なんてつまらないことに思えるでしょうね」

 女は頷いて微笑む。「だから掲示したんです。本当は展示の一部じゃないんですが、ぴったりだと思いまして」

「我々に憎むべき宇宙人はいませんがね。でも心配ない。敵は常に、どこかにいますから」

 女の笑顔がかすかに曇る。「どういうことですか」

「宇宙人でなければロシア人。ロシア人でなければ地元民だ。以前泊まった島では南のロブスター漁師は北のニシン漁師を嫌っていました。私には見分けがつかなかったし、親戚同士の人も多かったんですが、それでも彼らはよその誰かを憎むことができたんです」

 女は皮肉な一致に舌を鳴らして首を振る。

「もちろん、どちらの側も島外の人間を憎むことで団結していました」

「もちろん、ですか」

「ひとりの人間、種全体、あるいはその間のどんなレベルにおいてもパターンは同じ。まるで憎悪が――」

 私は銀河の中の銀河を思い描く。

「――スケール不変性を持っているかのようだ」ゆっくりと言い終える。

 女はこちらを怪訝そうに見ている。「その――」

「ですがもちろん、いいこともたくさんあります。人は必要とあれば協力することができる」

 笑顔が再び広がる。「まさしくそうですね」

「原住民のようにね。自分たちの文化を守るために団結し、互いの違いを忘れる。ハイダ族は他の部族を奴隷にするのをやめさえした」

 女の笑顔は消えていた。「ハイダ族はもう何世代も奴隷を取っていません」

「ああ、そうでしたね。我々が待ったをかけたのは――確かポトラッチを禁じる前のことでしたか。でも、ゆくゆくは再開したいと思っているはずです。なんせ奴隷制は彼らの文化に不可欠だったわけですから。ところで、私たちはあらゆる文化の本来の姿を是が非でも守らなければならないんですよね?」

「どうやら正しい認識をお持ちでないようですね」女がゆっくりと言う。

「おっと、申し訳ない。我々は多文化主義だと思ってたんです。カナダ人は――」数枚下の掲示板の太文字を盗み見る。「こちら側の道徳や倫理の基準を押しつけることなく、異なる文化が共に繁栄できるようにすべきであると」

「法の範囲内で、ですね」と女が言う。続きを待ってみたものの、警戒しているのかこれ以上話したくはないようだ。

 ではこちらが話そう。「きっとあなたはひとりの女性として喜んでいることでしょうね。この国にやってきたムスリムの男が、妻への伝統的な支配をやめなくていいことを。当然、それを家の中に留めておく限りは、ですが」

「失礼します」背を向け、展示に沿って歩いてゆく。

「あんたらは俺たちに嘘をついている」私は声を張り上げた。数人の傍観者が頭を巡らす。

 女が振り返り、口を開こうとする。私は機先を制して言う。「あるいは奴らにも嘘をついている。だが二股をかけることはできないし、下らん教室の落書きをどれだけ押しつけたって事実は変えられない」

 心の一部は、女の顔を怒りで歪ませるのを快く思っていなかった。数日前なら、その部分がいちばん大きかったかもしれない。だが、それは最長でも数千年の歴史しか持っておらず、残りの部分はまるで意に介していなかった。

 腕を上げて展示全体にかざす。「俺がレイシストなら、こんなもんで説得されやしないぞ」

 私は笑顔と誤解されるような仕方で歯を剥き出す。踵を返し、建物の奥へと向かう。

 あった。事件欄の最終ページ、ほぼ二週間前の新聞だった。どうも電波に乗りもしなかったらしい。どうせチャイナタウンでギャングの抗争が勃発しているから、殴られたアジア人がひとり増えたところで大差はないというわけか。見逃したのも無理はない。

 名前が載っている。ウェイ・チェン。バルスリー不動産所有のノースヴァンクーヴァー住宅団地にて意識不明の状態で発見、被害者は――

(バルスリー不動産……確か地元の会社じゃなかったか)

 ――夜間警備員として雇われていた。何者かに襲われた後の容態は安定している。動機は不明。容疑者もいない。

 莫迦か。この腐った街の住人の半分が容疑者だ、みんな動機がある、知ってるくせに。

 それとも知らないのだろうか。私たちに吹き込んでいる作り話を全て信じているのかもしれない。聞いてくれ、高密度住宅は最高だし、犯罪率は人口規模と関係ないし、大規模移民はアメリカから我々を守ってくれるんだ、万歳、万歳! 麻疹の治療に軽度の癌を使うのとはわけが違う。二〇一〇年にはロウアーメインランドの六割が中国人になるという予測が挙がるたびに、その報せは国際親善と文化的モザイクの物語に埋もれてしまう。生まれ育った場所を訪ねたら更地になっていて、海外のコングロマリットによって脈搏つ黄色い虫が詰まった巣箱に変えられていたときの気持ちを、奴らは知るまい。バルスリー不動産は香港から流れてきたのではないかもしれないが、あのときは知る由もなかったのだ。あそこは私の家だったのに、木々があり子ども時代の友人がいたのに、もう泥と材木があるばかりで、あの醜いちびのチンクは呶鳴りつけてきた挙げ句、言葉もろくに話せないくせに私の裏庭から私を追い出そうと――

 前は自分の行いに罪悪感を感じた。後悔で吐きそうだった。莫迦げた、ふわふわと散漫な考えだった。罪悪感は怪物を解き放ったあの瞬間から湧いているのではない。まったく違う。

 怪物を解き放ってこなかった全ての瞬間から湧いているのだ。

 原住民たちが出征路に立っている。寄贈保留地の東から道路を封鎖し、おまえたちがいるのは我々の土地だ、と訴えている。連中の望みは正義、報復、自治だった。

 私に言われても困るんだよ、高貴な野蛮人。こっちだって望みは一緒だ。

 ぎゅうぎゅうに詰まった交通はナメクジの列のように進む。この調子じゃ街を出るのに何時間とかかるだろうし、家までとなればなおさらだ。昔は街中に住む余裕があった。住みたいと望んでいた時代もあった。今はただ、叫びたくて仕方なかった。

 道端に原住民の子どもの集団がいて、親たちがもたらした渾沌にはしゃいでいる。私は原住民に対する悪感情は持っていない。連中は被征服民、酔っ払いと失業者で、誰の脅威にもならない。同情する。応援にクラクションを鳴らす。

 ガンッ! 蜘蛛の巣がフロントガラスに広がり、罅が分割に次ぐ分割で目に追えないほど細かいネットワークと化してゆく。かろうじて外が見え――

 クソッ! ガキが石を投げてきやがった! あそこだ、別の石を振りかぶって――いや、今は別の誰かを狙っている。こっちの先祖があっちの先祖に優しくしなかったから、他人の財産をぶっ壊す道徳的権利を神から与えられた気でいるんだ――

 こんな仕打ちを受ける筋合いはない。土地を奪ったのは私じゃない。車を寄せ、路肩に乗り上げ――アクセル全開だ! 横滑りに気をつけろ、横滑りに――そして道からわらわらと飛び出す莫迦どもを見ろ! ひとり逃げ足の遅い奴がいる。ボンネットから転がり落ちる瞬間、目が合った。ざまあみろ、嘲笑いが一瞬で消えてやがる! 軽率な行動を後悔しているのがはっきり伝わってくる。だが踊りはまだ始まったばかりだ。

 エンジンを切る。鍵をポケットに仕舞う。

 車を降りる。

 どこか遙か遠くで人々が叫び、クラクションが鳴り響いている。音はほとんど区別がつかない。目の前で若造が足をかばいながら舗道から起き上がる。もうさほどタフには見えないじゃないか。何年も前にオカを失ったことを、ようやく理解したみたいだな。お友達はどこに行ったんだい、クソ野郎。おまえが困ってるっていうのに、ラザニアはどこにいるんだろうな。

 なあ、抑圧を泣いて訴えたいんだろう。俺が抑圧を教えてやるよ、脂ぎった原住民のクソガキめ。一生忘れられない教訓を授けてやるぞ。

 筋肉は固く結び目を作っているのに、靭帯が根本で裂けていないのが不思議だった。これが今の自分にとっての当たり前なのだと、私はぼんやりと悟る。

 だが、じきに気分が良くなることはわかっていた。

Launch Date: Feb. 26, 2021

Last modified: Feb. 3, 2024

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