不朽

我々が遵守している政治機構の代わりとなる唯一の体制は、独裁なのかもしれない。
ジェイムズ・M・ブキャナン、一九七五年

 今この瞬間、マリカ・リドマンは深刻な異変に初めて気づいた。空港警察が、脅しをかけてこない。

 きっかけは太平洋上でふと覚えた断絶の感覚ではなかった。降下中なぜか客室乗務員がいなかったことでもなければ、『アンドレとのディナー』のハラハラするクライマックスを、テーブルと背もたれを元に戻せと促す音声に邪魔されることなく視聴できたという未曽有の事態でもなかった。ファイナルアプローチ中に窓から垣間見た奇妙な光景ですらなかった。地上ではヘッドライトがコンガダンスを踊り、小型車が小振りな列車の形を織り成して衝突もせず絡み合い、東の摩天楼を見やれば、ファサードに仄暗い輝きが蠢いて、まるで甲虫の大群に食い荒らされているかのようだった。サンフランシスコというワイアフレームの格子に小さく輝く街灯も、一週間前に比べて白さと明るさが増している気がした。進入角度が違うせいだろうか、漠然とそんなことを考えた。光の悪戯。ストリートアートのインスタレーション。

 ANA008便が着陸し、ずるずると滑走路の端まで進んで停止したときでさえ、マリカは気にも留めなかった。たぶん他の飛行機がゲートを占領しているのだろう。きっとアナウンスがあるはずだ。

 見慣れない制服の男がそばに来てそっと身を屈め、ジャケットの裾を払って腰の銃を示し、「マリカ・リドマン博士ですね。一緒に来ていただけませんか」と言ったとき、ようやく――マリカは心の底から驚いた。

 男の声に脅しをほのめかす感じはない。激発する口実を求めてうずうずしているわけでもないようだ(そんな口実を与えるほどマリカも莫迦ではない。とはいえ連中は理由を後からでっちあげることがある)。言葉は命令口調どころか、むしろお願いに近かった。

「とても大切なことなんです」と男が語を継ぐ。

 緊張しているらしい。少し怯えているようにすら見える。

「ご用件はなんでしょう。私に何か問題でも?」

「そういうわけでは」空港警察官だかなんだか知らないが、男は首を振った。「その、助けが必要な患者がいるんです」

 なるほど。マリカの名前と並んだMDの二文字に気づいた誰かが、早合点したに違いない。「私は臨床医ではありません。専門は計算論的精神医学で、二〇一二年からは基礎研究をしています」そう言いつつ、好奇心には勝てなかった。「どういった患者でしょうか」

「実は患者がいることしか知らないんです、リドマン博士。お願いします」

 客室を見回してみれば全員努めて下を向き、声を出さずにいる。マリカはシートベルトを外し、「あなた、銃を持った白人にしてはやけに恭しいけど」とぼやいた。「抵抗運動はとうとう実を結んだの?」

 男はぐっと唾を飲んだ。「どれのことでしょう?」

 車の行く先はわからなかった。外を見られる窓はなく、会話を交わせる運転手もいない。誘拐犯はただ肩をすくめてすまなそうに微笑み、じきに全て説明してもらえるはずだと請け合うばかり。三〇分後にマリカが入ったのはこれまた窓がない部屋で、壁、床、天井の全面に微細な銅のメッシュが走っていた。天井がやわらかなパステル調に輝き、ロゴや名札のないお揃いの緑のブレザーを着たふたりの人物を照らしている。緊張した警官は「タミとジョージです」と紹介してから退出した。

 タミとジョージは満面の笑みを浮かべている。名字は名乗ってもらえなかったが、こちらも尋ねはしない。タミとジョージ。いい響きだ。八〇年代の不人気なシットコムみたいで。

 あなたが見逃したものの話をしよう、とふたりが切り出す。フロリダはキーズ列島からウェストパームビーチまでがほぼ沈み、オレゴン州沿岸部は五〇〇〇万人の環境難民でごった返していて、テグジット後の南部はほとんど結束を保てていない。毎週、いくつもの中心市街地でパンデミックが発生。氷冠が溶けて以来、北極圏は無法地帯だ。ロシアはロモノソフの五〇キロ圏内に入り込むもの全てに発砲し、エクソン社は再生可能エネルギーの台頭で永久廃業する前にチュクチ海の大陸棚から手当たり次第に資源を汲み上げようとしている。大西洋を渡ればバルト海ではデング熱が流行中、乾燥し切った中東では苛烈な水戦争がシリアから――

「待って、なんの話? 助けが必要な人がいるんじゃ――」マリカは口を挟んだ。

「聞いてないの?」タミが眉をひそめる。

「そうらしい」とジョージ。

 そういうわけでジョージとタミが説明することになった。ふたりは新種の小型ブラックホール(非相対論的なタイプ)のことを教えてくれた。それは人々が思うよりずっとありふれているが、ありがたいことに寿命は長くないらしい。さらにワームホールや非対称放射について、マリカ・リドマンが生きてこの部屋で息をしていられる幸運について語り、筋書きが違えばあなたはジェット気流に浮かぶ灰の雲と化していただろうと言った。宇宙の水まきホースの一端が地球のあった地点を通過したのは、二〇年前だそうだ。そしてホースのもう一方の端が、つい昨夜、東部熱帯太平洋の成層圏を掠めた。ANA008便はまずい時間にまずい場所にいたために、逆流に巻き込まれたのだ。

 ふたりが話を終えると、マリカは言った。「ありえない」

 そこでタミとジョージが見せてくれたロボット、自動運転車、自動でプリント建造される摩天楼の列は、機械というよりは生き物のようだった。見たこともない夢のVR機器(HMDすら必要としない、磁石と超音波で音と映像を脳へ直接植えつける形式のもの)を装着させられると、驚異と絶望に満ちた光景が毎秒一二〇フレームで視覚野に描かれた。奇蹟を目にするたびに、これはゲームショウの手の込んだ悪戯なんだと思うのは難しくなり、恐怖を味わうたびに、悪戯であってくれという願いは強くなっていった。結局、長くはかからなかった。マリカの否認は、ハンマーが振り下ろされたガラスのように砕け散った。

 今は二〇三七年だ、とふたりが言う。

「まさか、こんなことって」

「無理もない。相当ショックなはずだ」

「むしろ本当にショックなのは――全然ショックじゃないってところ」二〇三七年。麗しき二〇三七年の世界は、現状趨勢BAUで二〇年先まで線を伸ばした未来予想図そのものに見えた。

「とんだ冗談もあったものね」マリカはふっと苦笑する。「世界は良くなるって思ってた。再生可能エネルギーがとうとう軌道に乗り始めた。自動運転する電気自動車もできた。AIは猫を夢見ていた。何もかもいい方向に向かうんだって浮かれちゃうくらいだった」

「確かに方向は変わったよ」とジョージ。「二〇一七年は〈暗黒の一〇年〉の始まりだった」

「意外でもないかな。その幕開けには立ち会ったし」考えてみれば、ジョージとタミもそれは同じはずだ。ただし当時は一〇歳くらいだったろうが。「それでも進歩はしてた。確かにホワイトハウスはとち狂っていたかもしれないけど、足りないところは他の人たちで補えるように思えた。ある巨大な慈善団体が、世界を救うための重大目標のリストを作成して、それを一番乗りで達成した人に賞金を出したの」

「Xプライズ」とタミ。

「それ。まだ続いてる?」

「残念ながら」

「だが、全盛期の財団は紛れもない勝利を重ねた」とジョージ。「初の商用準軌道宇宙船、初の深海マイクロマッピング技術、容疑者から非言語的な自白を検出する機械――」

「問題は」とタミが口を挟む。「バッテリ容量を倍増する道具が発明されると、人は車を四倍使うようになるってこと。太陽電池の価格が五分の一になれば、甘い汁を一〇倍絞る方法を見つけ出そうとする。ヨットを持つことが大それた夢に思えるのはヨットを手に入れるまで。今度は別荘が欲しくなる」

「手に入るものはありったけを掴み取れ、ね」とマリカ。「五万年前なら優れた戦略だった。脳幹は――更新世を脱することができなかった」

「昔から不思議だった」突然、タミの口調が告発でもするかのように険しくなる。「どうして人は自分たちが何をしてるかわかっていながら、ポップターツを貪ってセレブの過剰摂取ごっこを続けたのか。砂漠化や海面の上昇、干上がってゆく帯水層を目の当たりにしていたのに。疑問に思うべきでしょう、どうして人はちっともそれを止められなかったのかを」

「本気で言ってるの?」マリカはじろりとタミを見た。「状況がここまで悪化したのに、まだ原因がわからないふりをしてるわけ」

「教えていただけるかな」とジョージ。

 マリカはため息をついた。「なぜって自然選択には先見性がないから。関心があるのは今役に立つかだけ。だから私たちも大抵はそれしか気にしてない。すぐに得られる喜びしか。もっと砂糖を、もっとセックスを、もっと消費を。直観は報いがあることを信じない。直観にとって、未来は存在しない」

「人はいつも未来に目を向けてるじゃない」とタミ。

「確かに人は未来を見ようとする。でも、今すぐコストを払わなければならない場合、人は決して行動しない。今不便を味わうか、一〇年後に崩壊するか選ばせると、社会はどんなときも崩壊を選択する。それが一〇年先のことだから。きっと誰かが何か思いつくだろうから。緑の党が世界を牛耳っていて、どうせ全て作り話に決まっているから。新皮質は私たちが破滅する運命にあると教えてくれる。脳幹がそれを信じさせてくれない。で、この有様ってわけ」

「手遅れになるまで人が嘘をつき続けなければ、信じることができたでしょうね」またも声に棘がある。さっきと同じ非難の棘だ。

 もう我慢ならない。「あんたねえ、こっちはフライトが二〇年も遅れたって知ったばかりなんだけど。こんなついてるんじゃ、ずっとサドバリーにあった荷物と対面する破目にもなりそうだし。世代を代表して法廷に立つ気分じゃないの。勘弁してよ」

「私だってあの時代に暮らしてた」とタミ。

「子どもだったでしょ。ポップターツを貪ってた側の人間でしょうが」

「今でも憶えてる。誰かが警鐘を鳴らそうとするたび、荒らしやボットが黙らせてた。変革を約束して当選した人はみんな、結局は従来のやり方を好む人々の言いなりになっていた」

「なるほど。一パーセントの権力者のせいってわけね。多少は変わってないこともあるみたいで何より」げんなりしたマリカは首を振る。「富豪を排除しさえすれば、私たちは髪に花を挿してクンバヤを歌いながら天寿を全うできたはずだなんて、本気で思ってるの?」

「いいえ、でも――」

「問題は少数の富豪が富を独占してることじゃない。問題は、少しでもチャンスが与えられれば誰もが富豪になるってことよ。誰もが際限のない欲望を配線されてる。一パーセントの人間はたまたま大多数よりうまくやれただけ」

「マザー・テレサはどう」とタミ。

「へえ、よく知ってるね。あの修道女はラテンアメリカの暗殺集団に味方して組織犯罪にも荷担して、ホスピスの患者に鎮痛剤を投与するのを『苦しみは正当なものだから』って否定したんでしょ。そういう話がしたいわけ?」

「じゃあ普通の宣教師は。援助活動家、利他主義者はどう。その信念にあなたは反対するかもしれないけれど、彼らは際限のない欲望を配線されてはいなかった。自らの短期的な快適さを擲って、他人を助けた」

「はいはい。それはその人たちが最後に大きな見返りを期待してなかったからよ。あなたのマザー・テレサなら、たとえイエスが『己の欲するところを人に施せ、右の頬を打たれたら左の頬も向けろ、義のために迫害される者はさいわいである』と言っていたとしても、あれやこれやの良き行いをしただろうから――それにどの道、最後はみんな地獄行きなんだし」

「私が言いたいのは、彼らはすぐに得られる喜びを求めず、長期的視点を選んだってこと」

「天国で豊かになるためにね」

「仮にそれだけじゃなかったら?」とジョージが議論に加わる。

 マリカはジョージに目を向けた。

「仮に、テレサが長い目でジャックポットを狙っていただけじゃないとしたらどうだろう。果てしない苛酷な痛みと貧困で気持ち良くなっていたとしたら。仮に、将来的な見返りのために苦しむことを――アイスクリームをたらふく食べ、脳を人為的に刺激し、オプション満載の最高級VRアナルを探検するのと同じくらい、良いものと感じていたとしたら?」

 マリカの喉が脈搏った。

「要するに」声を極力平静に保つ。「マザー・テレサはマゾヒストだったってことね」

「必ずしも性的な意味ではない。オーガズム、チョコレート、宗教的な法悦ラプチャー――詰まるところ全てはドーパミンにすぎない。あなたの方がずっとお詳しいでしょう、リドマン博士」

 何もかも知っている、というわけか。

「興味深い仮説ね」マリカは用心しつつ言った。

「いや、ただの仮説じゃない」ジョージがにやりと笑う。「Xプライズを受賞したんだ」

「もう存続してないってさっき聞いたけど」

「その通り。財団は世界が森林火災経済に転じたときに解散した」

 ――用語の意味はわかるだろうと言わんばかりだ――

「だが、財団は去り際に大打撃を残していった。最後のXプライズが全てを変えた」

 タミがバトンを引き継ぐ。「曰く、煉瓦の壁にぶつかってばかりの技術的解決策は忘れてしまえ。我々はその壁を壊さなければならない」

「壁は、人間の本性」とマリカ。

「お見事」とタミ。「よくできました」

「人間の在り方を表すのにぴったりなメタファーを知ってる?」とタミ。

 マリカは高校英語からの引用で牽制した。「ブーツに踏みにじられる人間の顔。で、一体全体この状況は何」

 タミは首を振る。「顔じゃなくて、足。焚き火用の炉の縁に立っている人間の足」

 マリカは片眉を上げた。

「ユートピアは炉の反対側にある。けれど、そこへ至るには熱い石炭を歩いて渡らなければならない。よく言われるように、痛みなくして得るものなし、というわけ。でも、さっきあなたも言った通り、選択を下すのは直観で、直観は今この瞬間を生きている。痛みしか目に入らない。だから人はその場に立ち尽くす。ユートピアはすぐそこにあるのに、一歩が踏み出されることはない」

「で、最後のXプライズっていうのが」

 タミが頷く。

「熱々の石炭を歩いて渡るのを楽しむ人」

「基本的には喜んで犠牲を払うんだ。あとは、厳しい決断を下したりもする。強く高潔で先見の明があるからじゃない。そうするのがただただ気持ちいいから、長期的な視点で考えて行動する人たちだ」ジョージは学校の科学研究コンテストで銀賞を取った八歳児みたいな顔をしている。「テレサ・トゥイークと僕らは呼んでいる」

「別に過激思想でもなくてね」とタミ。「四半世紀前の時点でこういうアイデアは検討されていた。実際に取り組むことこそなかったけど。人間の本性の再配線を目標に据えると、倫理審査を通過するのは難しい。抗議と殺人の脅迫に嫌気が差して、諦めちゃったわけ」

「業界の権威がひとり、完全なる失踪を遂げたんだ」とジョージが悼むように言う。

 マリカは餌に飛びつくまいとした。「でも、再配線されて短期的な苦痛が大好きになったとして、どうして単に――熱々の石炭の真っ只中で歩みを止めてしまわないの? 足が黒焦げの炭になっても立ってるだけで気持ちいいんでしょ」

「メタファーに拘らないで」とジョージ。

「確かにそれが当初の課題だった」とタミ。「Xプライズ財団が埃を払ってベンチマークに加えるまで、それは解決されずじまいだった」

「それで今は?」

「脳が犠牲を払って気持ち良くなるのは、有益な長期目標を積極的に追求しているときだけ」

「つまり――人間の本性を再配線できる、と」

「ニューロンを――厳密に言うとニューロンを構築する遺伝子を、ね。既製のどんな遺伝子ドライブを使っても、トゥイークを注入できる」

「そしてそれはちゃんと機能する」

「ええ。今のところは子どもでしかテストしてないけどね」

「へえ――待って、今なんて?」

「だからこそ、今回の時空間事故は不幸中の幸いだった。わたしたちが初めて見つけた大人の候補者、それがあなたたちなの」

「その理由は?」

「他はみんなBCIを埋め込んでいるから」とタミは言い、マリカの表情を察して補足する。「ブレイン・コンピュータ・インタフェースを」

「ニューラル・ダストはご存じかな」とジョージがヒントをくれる。「脳に入れる小さなシリコン精細胞の大群のことだ」

 灰色文献や過激なクリックベイトは記憶にある。「世に出たのは私の後の時代でしょうね」

「本当に大躍進だった。インターネットは一個の巨大な脳梁と化し、人は心と心で話せるようになった。あれもXプライズを受賞したんだ。あのマスクラットイーロン・マスクを優に五年は出し抜いてね」

 タミが頷く。「一夜にして全てが変わった。唯一の問題は、ニューラル・ダストとテレサを併用できないこと」

「ならダストを取り出せばいいでしょ」

「いや、それは無理なんだ」とジョージ。「ダストはとても小さい。何千、何万という微粒子だ。一度入ったら残ったままさ。でも、あなたは――」熱狂の光がありありと放たれる。「あなたの脳は手つかずだ。理想的な候補者にかなり近い」

「つまりその――テレサ・トゥイークの」

 ふたりが揃って頷く。

「誰も彼もがブレイン・インタフェースを持ってるの? これからの――じゃなくて、過去二〇年でみんなして開頭手術を受けて――」

「嬉しいことに、そうじゃない」とジョージ。「何も切る必要はないんだ。注射するだけ。自動で脳に辿り着いて最適配置につき、自動で起動する。ワイア一本使わないパッシブな超音波ネットワークだ。侵襲性はない」

「で、世間はそれを受け入れた、と」

「そうしないわけがあるかな。基本的には高画質映像つきの携帯電話なんだから」

「でも頭の中に入れるんでしょ」

「超高画質なんだぞ。今や全感覚没入体験ができるんだ」

「そして全人類がその手の物を埋め込んだってわけ?」

「いいえ」とタミが認める。「使ってない人も多い」

「でも、そのなかにアメリカ人は含まれていない」とジョージ。

 理解に少々時間がかかった。「アメリカ人はひとり残らずブレイン・インタフェースを持ってる、ってことでいいのかな」

 つかのま沈黙が広がる。

「一種の法律なのよ」ややあってタミが言った。

「テロとの戦い」とジョージが言い添える。「憶えているでしょう」

「やましいことがなければ、何も怖がることはない。テロリストが凶行に及ぶ前に止めよう」

「テロリストが凶行を頭の中で考えている段階で止めよう」

「みんなゲームや映画用に持ってたの。法律はそれを義務化しただけ」

「それから、小児性愛者だ」

「子どもたちのことを考えろ、ってね」

 話が脱線していた。

「とにかく」とジョージが話を戻す。「全て過ぎたことだ。今の僕らにはあなたがいる」

「目的は何。第二相臨床試験とか? 手に入れた正真正銘のタイムトラベラーたちを実験用のラットに使うわけ?」

「あなただけだ」とジョージ。

「それにモルモットってわけでもない」とタミ。

「じゃあなんなの」

「どう言えばいいかな。救世主、なんてどうかしら」

「ふざけないで」

 ジョージは首を振った。「実は任せたいと思っているんだ」

「任せるって、何を」

「全てを」

 要するに患者相談だ。ただし患者はひとりではない。

 八〇億人だ。

「ふざけるのも大概にして」とマリカ。

「世界を救うチャンスを断ると?」

「冗談でしょ。タイムワープ事故に対処する公式協定がどんなものかなんて知ったこっちゃないけど、飛行機からランダムに人を選び出して、世界の独裁者の仕事を打診するなんて手順が含まれてるわけないでしょうが」

「そう思えるかもしれないけど、これはランダムじゃない」とタミ。

「じゃあ聞かせてごらんなさい」

「まず、システム外の人間でなければならない。となると候補は008便の乗客に絞られる」

「乗客は二〇〇人以上いる。きっと他の誰かが――」

「特定の人格の人、思いがけず人生が一変する出来事にも冷静かつ合理的に向き合える人でなければならない。例えば、半数以上の乗客が家族にすぐ会わせてもらえないからと癇癪を起こして泣き叫んでいるなかで、自分がいつのまにか二〇年の時を超えてしまったという事実について、懐疑的に議論のできる人」

「生きてる家族いないから」近しい友人も仕事を中心にしがちだ――いや、しがちだった。

「乗客名簿に載っている人でそう言えるのはあなただけ。あなたが名簿から消えても不都合な質問をしてくる人はいない」

「どこに問題があるの。政府のくせに邪魔くさい民間人をあしらうこともできないの?」

「ああ、僕らは政府じゃない」とジョージ。「政府の認可は絶対に下りないだろう。まだ時々の選挙を行う必要があるからね」

「じゃあ誰が――」

「私たちは公務員なの」とタミ。

「公務員?」

「農務省」とジョージが気を利かせてくれる。「財務省。魚類鳥獣局」

「それから車両管理局ってわけ? 本当に?」マリカは笑いの発作をこらえた。

 タミが肩をすくめる。「公務員でも必要とあらば迅速に行動できるの。ここに鳥の餌箱を作ろうって話ではないのよ、リドマン博士。そうでもなきゃ、必要なインフラを急に用意できるわけがないでしょ」

「インフラ」

「世界を救うための」

「公務員」冷静で懐疑的な合理性のおかげで、マリカはウサギ穴の縁になんとかぶらさがっていられた。「ゴミクズ公務員」

「そうですよ、リドマン博士。そんなふうにおっしゃらないで」

「あんたたちは叛逆同盟なんでしょ。これはクーデターなんだ」マリカは壁に、そこに埋め込まれた銅のメッシュに目を向けた。「ファラデー・ケージ?」

「テロリストや小児性愛者だけが対象じゃないから」とタミがそっと言う。「愛国者が追われることもある」

「でも公務員と言っても労働省や退役軍人省や教育省だけじゃないでしょ。NASAも入る。科学技術政策局は。国立科学財団だって」

「厳密に言えばそれらは独立機関だ」とジョージ。

「で、どうなの」とタミ。「仕事をする気はある?」

 もう少し遊びにつき合ってやるとしよう。「私にはそんな資格がない」

 ジョージが噴き出した。牛乳を飲んでいたら鼻からほとばしっていただろう。

 タミは平静を保っている。「いつ資格がどうのって話になったの? あなたが旅立った過去で采配を振ってた莫迦のことは憶えてるでしょ。ほんと、あの頃は良かったわ」

「私は二〇年も時代遅れなんだってば。ごくごく基本的な事実すら――」

「必要な事実もそれ以上の事実もこれから知ることになる。必要なのは生き字引じゃなくて」

「裁定を下せる人だ」とジョージが言う。

「他に何が必要かわかる?」とタミが続ける。「それを理解できる人。神を演じる、人間の本性を変えるって考えに、反射的に怒ってわめいたりしない人。そんな条件を満たす人があの便にどれだけいると思う?」

 クソッ。こいつら本気だ。

「つまりあなたたちは、一パーセントの富豪のせいで世界はめちゃくちゃだと考えている。そしてその解決法は、その人たちを置き換えること。そう、たったひとりに」

「ご明察」とタミ。

「先例はいくつかあるけど」とマリカは静かに言った。「うまくいった試しがない」

「先例なんてない。歴史上の独裁者はことごとく目先の私益を優先していた。高みに昇ってどれだけ高貴な気分を味わおうと、終着点はいつも同じ――堕落し、朽ち果てたのよ」

「でも、トゥイークなら私を不朽の独裁者に仕立て上げられる、と」

「他の誰もがそうであるようにあなたはイドの奴隷になるでしょう。ただし、セックスや砂糖や権力で気持ち良くなることはなくなる。長期的な持続可能性で気持ち良くなるの。あなたは燃える石炭を歩いて渡り、その一瞬一瞬を愛するようになる」

「じゃ、私が決定を下すとしましょう。実行するのは誰」

「リドマン博士。ああ、リドマン博士」マリカの素朴さにジョージは悲しげに首を振る。「僕らは公務員ですよ」

「どのみち仕事の大半は自動化されてるから」とタミが補足する。

 マリカはしばらく黙っていた。

 するとタミが話を続けた。「脳幹が更新世で止まってるって不満たらたらだったのはあなたじゃなかった? それを時代に即したものにしたいとは思わない?」

「あのワームホール」

「え?」

「あれは事故だったなんて私が信じると、本気で思ってるわけ」

 タミは薄く微笑んだ。「突き詰めれば全ては事故。でも細かいことを言えば、ギャンブルと言った方が適切でしょうね」

 マリカは小さく会釈するようにうなだれた。

 タミが再び問う。「どうするの、リドマン博士」

 まだ確信が持てない。正直なところ気持ちはぐらついていた。「断ったらどうなるの」

「あなたはどんな科学者になりますかね」とタミ。「自分の仮説を試す機会を逃したら?」

 三九度の発熱が五日間続いた。自分が内側から作り変えられていく感覚があった。血縁選択は矯正され、道徳は酸で腐食したかのように消え失せ、代わりに倫理と代数学がインストールされた。帯状回が蠢き、ぴくぴくと痙攣した。うっとりするようなスーパーハイウェイが側坐核から爆発的な勢いで延び、前頭前皮質までトンネルが開通した。いつのまにか、肝臓移植が必要な六歳の孤児を見ても、生来備わっていた心からのエンパシーを覚えなくなった。飢餓に苦しむ難民が百万人も増加したというニュースにふれても、見て見ぬふりをしなくなった。いつのまにか、そうしたふたつの感情は置き場所が入れ替わっていた。

 遺伝子ドライブがここまでできるとは驚きだった。脳の発達の大部分はエピジェネティックだ。ニューロンとグリア細胞の物理的な衝突、新生シナプスの成長と発火。人工ウイルスであれほど複雑なタペストリを織り直すことができるなんて、魔法としか言いようがない。マリカのいた時代なら、こういった処置はマイクロ波や外科手術で行うしかなかった。

 もちろん、当時の試みは失敗に終わった。

 トゥイークと未来のニューラル・ダストの相性が良くない理由がわかってきた。確立済みの神経回路に安住する微細な粒子は、あちこちで巻き起こる流砂のごとき急変に対応できないのだ。ダストはほぼ確実に、ジョージ言うところの巨大な脳梁の奥底に潜む国家安全保障局NSAに相当する何かへと、遭難信号を発するだろう。

 誰もが世界を救いたいと思っているわけではない。活動をレーダーに捉えられないようにしなくては。

 施術後、某所地下施設に運ばれた。HEPAフィルタと放射線防護が施されていて、戦術核が直撃しても電灯のちらつきすら生じない造りになっている(「ペンタゴンの配管工事の下請け」どうやって議会に予算を通したのか訊くと、タミはそう答えた。「資金は小口現金から調達した」)。マリカは贅沢な飾りを取り除かせ、キングサイズの代わりに簡易ベッドを用意させた。指示した際に覚えた心温まる曖昧な気持ちは、オーガズムにも迫った。

 専門知識の不足を補うために全知の諮問機関を紹介された。通称MAGI。初めは才に走った聖書への言及かと思ったが、そうではなくて頭字語だった。汎用人工知能AGI。Mはマリカ専属のMだ。MAGIは良心がささやくようにマリカ自身の声で語りかけてきた。

 もっとも、良心なんてもう必要なかった。

「なぜMAGIに任せてしまわないの」と訊いてみたところ、タミは理解できない思考プロセスを持つ異質な機械に管理権限を明け渡す愚かさを語った。ジョージは一言、人類はペーパークリップに変えられたくはないのさ、とだけ言った。

 ふたりはマリカを世界――少なくとも今なおアメリカ帝国が支配している一部分――の管理者の座に据えると、そそくさと去り、そっとドアを閉じた。

 いくつものウィンドウが頭の中に開いては閉じてゆく。数々の見識や目録が並ぶ一枚のパリンプセストが、頭蓋を包む(完全外付けの)VR装置によって視覚野に投影されている。いずれの情報も一瞥するだけで視界中央に持ってくることができたし、同じくらい簡単に片づけることもできた。大量の情報は増強された人間が何生涯もの時間をかけても篩い分けられないほどだったが、MAGIは裏で格付けし、検索パターンを追跡して、その情報を欲しているとマリカ自身が気づきもしないうちに関連結果を差し出してくれた。絶滅種の推移。為替レート。行政区でクロスソートされた、高頻度取引アルゴリズムが一人当たりカーボンフットプリントに与える影響。現れては消えていくそれらの情報を、マリカ・リドマンは――あるいは少なくともマリカの声で話す存在は――どのようにしてか全て理解していた。

 今こそ正しいことを為し、世界を救うときだ。

 方法は誰にでもわかる。テレサ・トゥイークを解き放って全人類を再配線し、持続可能性と遅延報酬を好むようにするだけでいい。改変ジカウイルスのシャーシで包み、蚊やブヨに乗せて拡散し、遺伝子ドライブで人類が正しい道へ進むのを待つのだ。実装は問題にもならない。タミとジョージには衛生省や農務省の友達が大勢いる。数億の塵状インタフェースには大混乱をもたらすだろうが、生命の持続可能性のためなら安い対価だ。

 MAGIが試算を弾き出す。トゥイークが地球を救えるほど広がるには、生態系への注入は遅くとも一九九五年に始める必要があった。

 話にならない。

 全世界的に個体数が激減すれば環境への喫緊の影響が和らぎ、時間を稼げるかもしれない。兵器化エボラに炭疽菌、近年大復活を遂げたサル痘。だが、MAGIのシミュレーションは効果的なシナリオを導き出せないようだった。病原体による殺戮はカーボンフットプリントが極少の人々に偏り、その一方で排出量の膨大な人々はおおむね無傷で生き延びてしまうのだ。過剰消費者たちが舞台に残り続ける限り、黙示録的な破滅は覆らない。

 アイデアが浮かび、相関行列を走らせる。ビッグフットのほぼ全員がニューラル・ダストを脳内に宿しているのを知っても、驚きはまったくなかった。

 マリカは精神医学的な解決策を模索し始める。

 それはマリカ自身のバイアス、どんな問題も釘に見える金槌の性向だったのかもしれない。もしかしたらバイアスはMAGIか、あるいはMAGIをプログラムしたデータセットにあったのかもしれない。堕落しうるという点では、機械学習も他のものと変わらない。

 単にこれが最適解だった可能性もある。実に気持ちが良かった。

 もちろん暗号の問題はある。数十年に及ぶ条件づけを経てもなお、人々はプライバシー侵害に反応する古代の衝動の名残りに苦しめられていた。だからパスワードと帯域幅制限がある。管理と個人設定のおかげで、マインドフリックスが『アベンジャーズ9』を脳に直接流している間も、自分の思考は自分だけのものだと安心することができる。

 とは言うものの、ロックが絶対に破れなかったら、テロリストと小児性愛者からアメリカを守れないではないか。

 マリカは緊急放送システムに侵入した。敬虔なる全アメリカ人の頭の中に通じるパイプで、国難に瀕したときのみ使用されるものだ(なお、稀に議員が配偶者の浮気を探るために使うこともある)。国立衛生研究所のデータベースを参照して、ある条件に合致する人たちを検索する。TrkBや神経成長因子NGFの発現量の低下、視床下部‐下垂体‐副腎系の活動亢進。GABAとグルタミン酸の代謝不良。セロトニンと脳由来神経栄養因子BNDFの欠乏。

 これらは自殺者に見られる神経化学的な兆候だ。

 しばらく時間をかけて、条件に合う脳からいかに信号をチューニングするかを考えた。出力データに手を加え、フィルタとアンプを通して絞り込み、エッセンスに還元するのはずっと簡単だった。こちらは遅れを取っているかもしれないが、脳の化学はここ二〇年でさほど変わってはいなかった。

 エッセンスをネットワークに流すのは死ぬほどたやすい。緊急放送システムの要点とは、万人に届くことにあるのだから。

 この国には今なお大量の銃器が存在する。橋や高層ビル、薬も無数にある。ただ動機を植えつけてやりさえすればいい。人々は自分なりの手段を選ぶだろう。

 各ベンチマークを達成するたびに、ぞくぞくする感覚が少しずつ高まっていった。

 タミとジョージ、叛逆同盟一同には気の毒なことをした。ひょっとしたら、身を投げたり引き金を引いたりするその瞬間に、理解してくれるかもしれない。このためにこそ彼らはマリカを再配線したのだから。未来のために苦渋の選択を下せるように、と。

 今、少なくとも未来はあるはずだった。過剰消費者が一掃されれば、テレサ・トゥイークが世界に広がるだけの時間が生まれ、未来の世代――持たざる者、難民、六歳の誕生日にソニーの最新オーグメントを買ってもらえない哀れな貧者の子孫は、遠い将来を見据える澄んだ目を育んでいくだろう。彼らは父祖の罪を繰り返しはすまい。惑わされることすらないはずだ。

 無論、マリカが行く末を見届けられる可能性はない。頭の中にダストこそ宿っていないが、この密閉された地下壕にマリカがいることを知る者はごくわずかだ。タミとジョージ、そのお友達がみんないなくなってしまえば、食糧の枯渇は時間の問題だった。

 だが、それを気にかけるのも難しい。法悦が、天上の火のごとくマリカの魂に満ちていく。

Launch Date: Feb. 26, 2021

Last modified: May. 7, 2023

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