ジャズミン・フィッツジェラルドの再臨

 おかしいのは、どこだろう。

 一見、それほど違和感はない。血溜まりのパターンは被害者の位置と完全に一致している。派手な動脈性出血はなく、刺傷箇所は全て腹部で、ほとばしったのではなく零れ出たという感じだ。スローガンもなし。ヘルター・スケルターだの、サタンこそ主なりだの、エルヴィスは生きているだの、その手の殴り書きはどの壁面にも見当たらない。惨状を呈しているのはよくある寝室付きアパートのよくあるキッチンで、部屋はふたり分の人生の欠片で既に埋め尽くされている。今やたったひとりの生き残り、じたばたと暴れる血塗れの怪物は、警察に力尽くで連行される際に金切り声で何度もマントラを唱えていた――

「私が救わなきゃ私が救わなきゃ私が救ってあげなきゃ――」

 ――これでまたひとつ、駆けつけた警官たちは別に必要としていなかったのだが、家庭内暴力対応が最低最悪であることを示す証拠が得られた。

 女は男を救ってなどいなかった。もう誰にも救えないのは明らかだ。男は自分の中身の池に伏しており、血とリンパ液がリノリウムのタイルの隙間に沿って広がり、十字に交わって、犯罪現場にうってつけの凝血した格子を描いている。時折、唇に赤い泡が生まれては弾ける。たまたまそれに気づいた者は揃って気づかなかったふりをする。

 凶器はというと、すぐそこにある。血と指紋がべったりとまとわりついた平凡なステーキナイフが、ちょうど女が落とした位置に転がっている。

 唯一不明な点は動機だ。物静かな夫婦だった、と隣人は言う。夫は病気で、何ヵ月も苦しんでいた。あまり外出はしない。暴行の前歴もなし。ふたりは深く愛し合っていた。

 女もまた病んでいたのだろうか。もしかすると脳内の腫瘍か何かの指令に従っていたのかもしれない。あるいはこれはエイリアンによる誘拐のやりそこないで、レチクル座ゼータ2からやってきた灰色の肌の怪物が自らの無能の罪を無実の第三者に着せたのかもしれない。これは集団幻覚で、本当は何も起こっていないのかもしれない。

 ひょっとすると、これは神の御業なのかもしれない。

 警察は女を迅速に確保した。これはオフィスアワー中の殺人の利点のひとつだ。試料を採取し、服と肌から残留物をこそげ落とし、女が着ていた血は誰のものかと質問される事態に備える。アパートを捜索し、近隣住民や親族に聴取を行い、身許の表面的な細部を固めた。ジャズミン・フィッツジェラルド、二四歳、ブルネットの白人、博士号取得候補者。専攻は包括的一般相対性理論、とかなんとか。警察は女の服を脱がせ、身なりを整え、裁判官と意見を交わした上で司法精神医学支援サービスの第一接見室へと回した。

 そこで、ある人物を女に引き合わせた。

「こんにちは、フィッツジェラルドさん。私はトーマス博士です。もしよろしければマイルズと呼んでください」

 フィッツジェラルドがトーマスを睨む。「マイルズね」落ち着いた様子だが、真新しい涙の痕が顔に残っている。「あなたが判断するってわけ、私が狂ってるかどうかを」

「裁判を受けられる状態かを、です。まず申し上げておきますが、あなたが私に話す内容には必ずしも守秘義務があるわけではありません。わかりますか」フィッツジェラルドが頷く。その向かい側にトーマスは座った。「なんとお呼びしたらよいでしょう」

「ナポレオン。ムハンマド。イエス・キリスト」唇が引きつり、かすかに笑みが浮かび、すぐに消える。「ごめんなさい。からかっただけ。ジャズでいい」

「ここはどうですか。待遇に問題はありませんか」

 フィッツジェラルドが鼻を鳴らす。「待遇は最高よ、私を怪物か何かと思ってるにしては」少しの間。「違うんだけどね」

「怪物ではない、と」

「狂ってないってこと。私は――つい最近パラダイムシフトを経験した、と言えばいいかな。世界全部が違って見えて、頭でわかっても腹の底では――要するに、世界の感じ方が変わるのはとっても大変だってこと……」

「パラダイムシフトについて教えてください」と促す。メモは取らないようにしている。そもそもメモ帳が手許になかった。そんなものは必要ない。ブレザーに仕込んだマイクロカセットレコーダーが敏感な耳を澄ましている。

「世界に意味があると感じるの」とフィッツジェラルド。「前は違った。人生で初めて本当の幸せを感じてるの」今度の微笑みは長かった。心からの笑顔らしいと驚かされるほどに。

「ここに初めて来たときは、あまり幸せではなかったようですね」トーマスは穏やかに言う。「酷く取り乱していたと聞きましたが」

「ええ」と真剣な表情で頷く。「あんなことを自分にするのだってつらいのに、他の誰かを、本当に大切に思っている人を危ない目に遭わせるのは――」片目を拭う。「あの人、一年以上も死にかけてたんだけど、それは知ってた? 日ごとに痛みが増していたの。全身に広がっていくのが目に見えるようで――まるで葉っぱが枯れていくみたいだった。あるいは化学療法のせいだったのかもしれない。どっちが悪いかなんて決めようがなかった」頭を振る。「ふふ。ともかく、もう終わったの」

「それが理由ですか。苦しみを終わらせることが」トーマスは疑念を抱く。一般に、安楽死を与える殺人者は受益者を解体したりしない。それでも質問してみる。

 フィッツジェラルドが答える。「確かに私はしくじって、こじれさせただけだった」身体の前で手を叩く。「もうあの人が恋しくなってる。狂ってるかな? ほんの数時間しか経ってなくて、どうってことないとわかってるのに、それでも恋しい。これも理性と感情の問題ね」

「しくじったと言いましたね」

 深呼吸をして、フィッツジェラルドが頷く。「酷いへま」

「それについて教えてください」

「私はデバッグのことを何もわかってなかった。わかってるつもりでいたけど、有機物が相手だと――結局、コードを無作為に掻き乱しただけだった。何もかも滅茶苦茶に壊しちゃうもんでしょ、作業の意味を完璧に理解してないとさ。だから今は理解に努めてるところ」

「デバッグ?」

「そう呼んでるの。まだ現実的な言葉がないから」

 いいや、あるとも。「続けて」とトーマスは言う。

 ジャズミン・フィッツジェラルドがため息をつき、目を閉じる。「事情が事情だから信じてもらえないだろうけど、私はあの人を本当に愛してた。いいえ、愛しているの」吐息は穏やかな自嘲の薄笑いになる。「またやっちゃった。ひっどい過去形」

「デバッグについて教えてください」

「マイルズ、あなた興味ないんじゃないの。この件に関心があるとさえ思えない」開かれた目がトーマスをじっと見据える。「でも記録のために言っておく。スチュは死にかけてた。私はあの人を救おうとした。私はしくじった。次はもっとうまくやるつもりだし、その次はさらにうまく、ゆくゆくは間違いを正してみせる」

「そのとき何が起こるのですか」

「どちらの目から見て?」

「あなたの目から見て」

「コードの不具合を修正する。それか、無傷のサブルーチンを複製してメインループに挿入する方が簡単だったら、そうする。どっちでも似たようなもの」

「なるほど。では、私は何を見ることになるでしょう」

 フィッツジェラルドが肩をすくめる。「死から蘇るスチュを」

 おかしいのは、どこだろう。

 テーブルの上に広がるジャズミン・フィッツジェラルドの心が、何ページもの標準化された質問票からウインクを寄越す。おそらくはこのどこかに、怪物が潜んでいる。

 人間の精神の解剖に使われるツール一式。WAIS、MMPI、PDI。全てハンマー、ミクロトーム気取りの鈍らの鑿だ。傍らには一冊のDSM‐Ⅳが鎮座している。症状と病理が詰まった分厚いペーパーバック。マトリクス状の鳩の巣箱。フィッツジェラルドはどれかに当てはまるはずだ。間欠性爆発性障害。被虐待症候群。それともありふれたソシオパスか。

 テストの結果は決定的ではない。まるであの女がページの上から嘲笑ってくるかのようだ。はいかいいえで答えよ。他の人には聞こえない声が聞こえることがある。いいえ、とチェックしてある。近頃妙に気分が落ち込んでいた。いいえ。腹が立って何かを殴りたくなることがある。はい、加えて余白に手書きのメモ。ねえ、誰だってそうでしょ。

 テストには罠が仕掛けられていて、関連する質問群は巧妙な自己矛盾の落とし穴で嘘つきを捕まえるようデザインされている。ジャズミン・フィッツジェラルドはそれを全て回避していた。滅多にいない正直者なのか。テストに対して聡明すぎるのか。これでは何も――

 ちょっと待て。

 ルイ・パスツールはどんな人物ですか。学歴を把握するためのWAISの質問だ。

 ウイルス、とフィッツジェラルドは書いている。

 リストを遡る。前のページにもある。ウィンストン・チャーチルはどんな人物ですか。同じだ。ウイルス。

 その一五個前の質問。フローレンス・ナイチンゲールはどんな人物ですか。

 有名な看護士、とフィッツジェラルドは答えていた。先行する歴史上の人物に関する質問への回答はどれも正しく、目を引くものはない。だがナイチンゲール以降は全員ウイルスだ。

 ウイルスを殺すことは罪ではない。良心の咎めなしに実行できる。おそらく自らの行いの性質を再定義しているのだろう。そうやって罪悪感と折り合いをつけ始めたのかもしれない。

 結構。死者が蘇るなどという戯言はちっとも効き目がなかったわけだ。

 入室したとき、フィッツジェラルドは組んだ腕に頭を載せ、テーブルに伏せっていた。トーマスは咳払いする。「ジャズミン」

 返答はない。手を伸ばして肩にそっと触れると、顔が上がった。なめらかな動きに疲れは見えない。椅子に背を預け、笑みを浮かべる。「お帰りなさい。で、私は狂ってるの?」

 トーマスは笑みを返し、向かい合って座る。「先入観を与える言葉は避けておりまして」

「ねえ、私なら平気よ。癇癪の気はないから」

 トーマスの脳裏をあの光景がよぎる。最愛の夫、リノリウムの格子に蝶の羽めいて広がる内臓。もちろんだとも。癇癪なんてもんじゃない。きみの行為を表現するには、まったく新しい言葉が必要だ。

 デバッグ、と言ったか?

「テスト結果を調べていました」とトーマスは切り出す。

「合格?」

「そういうテストではありません。ですが、いくつか回答に興味をそそられました」

 唇を引き結ぶ。「それは良かった」

「ウイルスについて教えてください」

 またもあの陽気な微笑み。「喜んで。外部のソースコードを乗っ取らないと自己複製できない、変異性の情報文字列のことよ」

「続けて」

「コア戦争って聞いたことある?」

「ありません」

「八〇年代前半にある男たちが自己複製するコンピュータプログラムをたくさん書いたの。そのアイデアは、プログラム群を同じメモリブロックに置いて、スペースを奪い合わせるってものだった。自己防衛したり生殖したり、それからもちろん敵を食べるための独自の戦略を、それぞれが持っていた」

「ああ、要するにコンピュータウイルスですね」

「というか、その前身」少し間を置き、首を傾げる。「そういうちっぽけなプログラムになったらどんな感じなんだろうって思ったこと、ない? 産卵しながら走り回って論理爆弾を落として、他のウイルスと相互作用するのはどんな感じなのかって」

 トーマスは肩をすくめる。「今の今まで知りもしませんでしたから。どうしてですか。そんなふうに考えることがあるのですか」

「しない。今はもう」

「続けて」

 表情が変わる。「ねえ、あなたと話すのってプログラムと話すのに少し似てる。あなたの台詞ときたら『続けて』と『もっと教えて』ばかりで――あのねマイルズ、あなたよりレパートリーが豊富な心理療法プログラムが、六〇年代に書かれてるの! しかもBASICで! 何か意見でも言ってみせてよ!」

「それはただのテクニックですよ、ジャズ。議論をしに来ているわけではないので。それも面白いかもしれませんがね。私はあなたの裁判に立つ適性を評価しようとしているのです。私の意見などどうでもいい」

 フィッツジェラルドはため息をつき、うなだれた。「わかってる。ごめんなさい、私を楽しませに来てるんじゃないってわかってるんだけど、昔は――その、スチュアートならいつだって――ああもう。あの人が恋しくて仕方ないの」と零し、目を悲しげに輝かせる。

 この女は人殺しだ、とトーマスは自らに言い聞かせる。騙されるな。評価すること、おまえがすべきはそれだけだ。

 頼むからこいつを気に入ったりするんじゃない。

「それは――理解できます」

 フィッツジェラルドが鼻で笑う。「莫迦言わないで。あなたは何も理解なんかしてない。あの人が初めて化学療法にかかったときに何をしたか知ってる? 総合試験の勉強をしてた私の教科書を盗んだの」

「なぜそんなことを?」

「私が家で勉強してないのを知ってたから。私はすっかり参ってたの。お見舞いに行ったら、あの人はベッドの下から憎たらしい教科書を引っ張り出して、ディラックやベッケンシュタイン境界についてクイズを出し始めた。死の瀬戸際にいたのに、私が莫迦らしいテストに備えるのを手伝うことしか頭になかったの。私はあの人のためならなんだってするわ」

 なるほど、とトーマスは声に出さずに言う。確かにきみはこの上ないことをしたね。

「また会うのが待ちきれない」と思いつきのようにつけ加える。

「ジャズ、それはいつになりそうですか」

「いつだと思う?」と、じっと見つめてきた。確かに目に浮かんでいたはずの悲しみと絶望はいつのまにか見えなくなっていた。

「普通の人はそう聞かれたら、来世について話すのではないかと」

 悲しげな微笑みが返ってきた。「これが来世なのよ、マイルズ。ここが天国にして地獄、そして涅槃なの。なんだっていいけど。この世界こそが、ね」

「ええ」ややあってトーマスは答える。「そうなんでしょうね」

 トーマスへの失望が告発のように漂う。

「あなたは神を信じていないでしょう?」しばらくしてフィッツジェラルドが言った。

「そちらは?」と切り返す。

「昔は信じてなかった。でも糸口があることがわかった。それどころか、証明も」

「例えば?」

「トップクォークの質量。ヒッグス粒子の幅。見方さえわかればそうとしか読み取れない。マイルズ、量子力学の知識はある?」

 トーマスは首を振る。「よく知りません」

「素粒子レベルでは何物も存在しているとは言えないの。全ては確率波にすぎない。誰かがそれを見るまでは。そのとき波は崩壊して、いわゆる現実が現れる。だけど、観測者が事にかからない限り、それは起こりえない」

 トーマスは目を細め、どうにか理解しようと頭を絞る。「じゃあ、私たちが見ていなかったら、このテーブルは存在しないとでも?」

 フィッツジェラルドが頷く。「多かれ少なかれね」一瞬、口の端にあの笑みが覗く。

 トーマスはその笑みを引き出そうとする。「つまり神こそ観測者だと言っているのですか。神があらゆる原子を観測するから、宇宙が存在するのだと」

「へえ。私はそんなふうに考えなかった」笑顔が集中するような渋面に変わる。「数学的というより隠喩的だけど、いいアイデアだね」

「昨日、神はあなたを観測していましたか」

 気を取られたか、顔が上がる。「え?」

「神は――それはあなたとコミュニケートしますか」

 表情がすっかり消えてなくなる。「神が指示したのかってことね。スチュを切り分けて、あんな――あんな――」歯の隙間から息がひゅっと漏れる。「違う、マイルズ。声なんか聞こえない。チャールズ・マンソンが夢に出て甘い言葉をささやいたりもしない。そういう質問は全部テストで回答済みだから、もういいでしょ」

 トーマスはなだめようと両手を上げる。「そういうつもりではありません、ジャズミン」嘘つきめ。「そう聞こえたのであれば申し訳ありません、ただ――神や量子力学となると、一度に呑み込むのは大変でしょう? あまりに――衝撃的ですから」

 フィッツジェラルドは警戒した目で見つめてくる。「ええ。でしょうね。つい忘れてしまうけれど」ほんの少し力を抜く。「でも全て真実よ。計算は必然的。ただ見るだけで、現実の性質を変えられるの。あなたの言う通り、衝撃的」

「ですが素粒子レベルでだけでしょう? このテーブルを無視するだけで消せるなんて、本気で言っているのですか」

 目がトーマスの右後方、ドアがあるあたりにちらりと向けられる。

「いいえ」ややあってフィッツジェラルドが言った。「練習を積まなきゃ」

 おかしいのは、どこだろう。

 もちろん明らかな点は除く。胸骨から臍のおよそ二センチ下まで走り、腹筋を貫いて腹腔に至る切創は別だ。鋸歯状の縁は刃物の使用を示唆する。どうやら切れ味はいまいちらしい。

 待て。早合点はよそう。検視官の仕事は非常に系統立っている。よろしい、次。白人男性、二〇代半ば。外部形態計測は済んでいる。脱毛症と痣は化学療法の毒性と合致。右手の人差し指と薬指の爪が行方不明、と同記録。死亡時の男性は病人だった。病に侵され、治療に毒されていた。これ以上悪くなりようがないと思った矢先に……。

 内部へ下りる。ゴム手袋を嵌めた検視官の手を呑み込む傷口は引き裂かれた巨大膣口のようで、その陰唇には血がこびりついて結晶化している。中で艶めく普通の臓器は、救急隊員が現場で紐を巻き取って搬送のために再梱包していた。その過程で証拠が失われた恐れはある。殺人者は内臓を何か意味のあるパターンに並べていて、胃腸の配列がなんらかの手がかりを、あるいは不浄の名前を綴っていたのかもしれない。問題ない。全て写真に収めてある。

 薄いラテックスのように伸びる腸間膜が、腸のループを包んでいる。ただ、少々きつめだ。どうも――ある種の瘻孔が下部回腸に点在しているらしい。ループが融合している点がいくつかある。こんな状態を招くものが、何かあるだろうか。

 何も思い浮かばない。

 留意し、記録して、詳細な組織分析用の試料を採る。進もう。メスは煮過ぎたパスタを裂くようにあっさり腸管を貫く。粘つく胆汁と未消化の糞便塊がだらりとトレイに落ちる。背側壁に膨らみが、骨がないはずの場所に骨のように白く輝く何かがある。切開、切除。よし。右腎臓を覆う塊はおよそ一五×一〇センチで、膀胱まで伸びている。かなり異質で、複数のしこりらしきものがある。腫瘍だろうか。これが、スチュアート・マクレナンの主治医が毒を注ぎ込んで戦っていた相手なのか。それは検視官が見たことのあるどんな腫瘍とも似ていなかった。

 何しろ――これは実に奇妙なことだが――それはこちらを見つめ返しているのだ。

 教授のデスクは質実剛健そのものだ。場違いな書類は一切ない。そもそも書類自体が見当たらない。ど真ん中に置かれたサン社のワークステーションと左の隅にあるCDラックを別にすれば、デスクの表面はキューブリックのモノリス同然に特徴がなかった。

「見覚えがあるわけだ」と教授。「新聞で見ました。はっきりとはわからなかったのですが」

 教授はジャズミン・フィッツジェラルドの指導教官だ。

「多くの学生を抱えていらっしゃるんでしょう」とトーマス。

「ええ」身を乗り出し、キーボードを叩き始める。「実はまだ全員に会ってもいなくて。専らネットで対応している学生がヨーロッパにひとりふたりいます。今度の夏はベルンで顔を合わせたいものです――ああ、ありました。メディアの写真とはまるで似ていませんね」

「フィッツジェラルドさんはヨーロッパ在住ではありませんよ、ラッセル博士」

「ええ、確かに。ですが、CERNで実地研究をしていたんです。超大型加速器の建設が頓挫してからは、こっちで成果を挙げるのはもう大変で大変で。あっ」

「何か?」

「休暇を取ってますね。思い出しましたよ。一年半前、論文の提出を保留にしていました。家族が病気とかで」ラッセルはモニタを見つめる。何かを見て、唐突に悟ったらしい。

「夫ですか。夫を殺したのですか?」

 トーマスは頷く。

「なんてことだ」ラッセルが首を振る。「そんな人には見えなかった。いつだって――とても陽気だったのに」

「今でも陽気に見えることがありますよ」

「なんてことだ」ラッセルが繰り返す。「それで、私はお力になれますか?」

「彼女は非常に凝った妄想を患っていて、その妄想を、私には理解できない専門用語で表現しています。どうもちゃんと筋が通っているようで――いや、違う。取り消します。筋が通ってるわけないんですが、私には、その、主張を理解する知識が足りなくて」

「その主張とやらは、どういったものなんですか」

「例えば、死んだ夫を蘇らせるんだと繰り返し話しています」

「なるほど」

「驚かないのですね」

「そりゃそうですよ。さっき妄想を抱いているとおっしゃったではないですか」

 トーマスはひとつ息をつく。「ラッセル博士、私はここ数日いくらか本を読みました。大衆向けの宇宙論、量子力学の入門書、その手のものを」

 ラッセルは鷹揚に微笑む。「何かを始めるのに遅いということはないと思いますよ」

「素粒子レベルで起こる様々な現象には、疑似宗教的な含みがあると感じました。物質の自発的な出現、同時に存在する異なる状態。スピリチュアルと言ってもいい」

「ええ、その通りだと思います。ある程度は」

「一般的に言って、信仰を持つ宇宙論学者は多いのですか?」

「それほど多くはありません」ラッセルがモノリスを指で叩く。「この分野はただでさえ奇妙で、そこに宗教体験を重ねる必要なんてないんです。東洋の宗教には量子力学っぽく聞こえる主張をするものもありますが、類似点はごく表面的です」

「キリスト教的なものはどうですか。死者を蘇らせる全能の唯一神を信じさせるような」

「ありません。ああ、ティプラーのような輩は例外です」ラッセルは身を乗り出す。「なぜです。ジャズミン・フィッツジェラルドはクリスチャンになったんですか?」博士の口調はこうほのめかしていた。殺人となんの関係があるんですか……。

「そんなことはないと思います」とトーマスは請け合った。「キリスト教が人身御供を受容させる教義を広めていたら、話は違いますが」

「ええ。そうですね」ラッセルは満足したように椅子にもたれる。

「ティプラーとは?」

「ん?」ラッセルはまばたきし、一瞬ぼんやりとする。「ああ、はい、フランク・ティプラーですよ。テュレーン大学の宇宙論学者で、神の存在を立証する検証可能な数学的証明を見つけたと主張したんです。確か、来世の存在も。何年か前にちょっとした騒ぎになりましたよ」

「気を引かれなかった、とお見受けしますが」

「実を言うと、動向を熱心に追いはしませんでした。神学は趣味ではないもので。まあ、もし物理学が神の存在、あるいは不在を証明するならそれはそれで結構ですが、そこがお勉強の核心とは限らないでしょう?」

「なんとも言えません。でも、地獄じみた波及効果がありそうに思えますね」

 ラッセルが微笑む。

「参考資料をお持ちだったりしませんか」

「もちろん。少々お待ちを」ラッセルがワークステーションにCDを取り込み、キーボードをいじる。端末が唸る。「これです。『不死の物理学:現代宇宙論、神と死者の復活』。一九九四年、フランク・J・ティプラー。もし必要でしたら、引用一覧を印刷できますが」

「お願いします。それで、その証明はどのようなものだったのでしょう」

 教授がごくかすかな笑顔のようなものを浮かべる。

「一〇〇字以内で」とトーマスはつけ加える。「莫迦にもわかるように」

「うーん」とラッセル。「基本的にティプラーの主張は、数十億年後に生命は自らを超大型量子効果計算装置に組み込んで宇宙崩壊に伴う絶滅を避けようとする、というものです」

「宇宙は崩壊しないのでは」トーマスは口を挟む「ひたすら膨張すると証明されたと……」

「それは去年ですから」ラッセルがそっけなく言う。「続けても?」

「ええ、お願いします」

「どうも。先ほど申し上げたようにティプラーは、数十億年後に生命は自らを超大型量子効果計算装置に組み込んで宇宙崩壊に伴う絶滅を避けようとすると主張しました。このプロセスに欠かせないのは、その時点までに宇宙で起きた全事象を、素粒子レベルまで、しかも出来事のありえた可能性も全てひっくるめて再現することです」

 机の横でプリンターが紙の舌を出す。ラッセルがそれを引き抜いて手渡してくれる。

「では、神とは時間の果てのスーパーコンピュータということですか。そして私たちは皆、全シミュレーションモデルの母親の中で復活する?」

「うぅむ」ラッセルが震える。カリカチュアは教授に肉体的な痛みを引き起こすらしい。「そう思われます」嫌そうに言う。「一〇〇字ちょっと、ご希望通りです」

「ふむ」急にフィッツジェラルドの妄言がありふれたものに思えてきた。「ですがもしティプラーが正しかったら――」

「正しくないというのが大方の意見です」ラッセルが慌てたように遮る。

「仮定の話です。もしモデルが精巧な再現だったら、現実の人生と来世の区別なんてつきっこないですよね。なら、なんの意味があるんですか?」

「まあ、重要なのは究極の絶滅の回避なんでしょう。区別のつけ方は……」ラッセルが首を振る。「実は読み終えたことがないのです。先ほど言ったように神学にはさほど興味がなくて」

 トーマスは首を振る。「とても信じられない」

「そんなもんですよ」とラッセル。そうしてすまなそうに言い添える。「ただ、ティプラーの理論的証明はかなり詳細なものだった覚えはあります」

「でしょうね。ティプラーはその後どうなったんですか」

 ラッセルは肩をすくめる。「新しい世界観を思いつくほどの愚か者に何が起こったか、ですか。人々は狂乱索餌中の鮫のように激しく彼を非難しました。後のことはわかりません」

 おかしいのは、どこだろう。

 何もおかしくない。何もかもおかしい。ふと目醒めたマイルズ・トーマスは薄暗い部屋に目を凝らし、何も変わってなんかいないと自分を納得させようとする。

 何も変わっていなかった。かすかに聞こえる深夜の交通音はいつもと変わらない。壁と天井に広がり淡く光る灰色の平行四辺形は、遠くの街灯が投げかける寝室の窓の影だ。ナタリーはベッドの左側からいなくなったままだが、別れたのは今となっては遠い昔の出来事なので、自らに言い聞かせる必要はまったくない。

 トーマスは枕許の目醒まし時計のLEDをチェックする。午前二時三五分。

 何かが違う。

 何も変わっていない。

 いや、ひとつ違いがある。ティプラーの異端書がナイトテーブルに載り、ビニル製のカバーが時計の放つ赤い光線を反射している。『不死の物理学:現代宇宙論、神と死者の復活』。レタリングを読むには暗すぎるが、あんな書名は忘れようにも忘れられない。この日の午後、マイルズ・トーマスは図書館から借り出したその本を適当に開き、

 困惑と嫌悪に駆られて鞄にぶち込んだ。なぜ、あんな代物をわざわざ手に取ったのだろう。ジャズミン・フィッツジェラルドは妄想狂。単純な話ではないか。理解はマイルズ・トーマスの仕事ではないし、あの女は夫をキッチンの床で生体解剖したのだ。様々な言い訳を編み出して覆水を盆に返そうとしているが、妄想を難解な宇宙論用語で包んだところで信憑性が上がるわけもない。何を思って夜を徹し量子力学に取り組む? 必要な知識のごく一部を学んで、あの女が入念に築き上げた幻想に穴でも見つけるつもりか。なぜ、こうも思い悩む?

 それでもトーマスは思い悩む。真夜中の二時半の現在、朧に佇む『不死の物理学:現代宇宙論、神と死者の復活』を前にして、何かが変わったことは確信しかけているが、何度考えてもそれがなんなのかわからない。どことなく違う感じがするとしか言えない。この感じは……。

 覚醒。そんな感覚だ。もはやどんなことがあろうと眠りに戻ることはできないような。

 マイルズ・トーマスはため息をついて読書灯をつけた。光に照らされて瞳が収縮した目を細めつつ、手を伸ばして問題の本を掴む。

 意外にも、部分的に意味がわかりそうなところがある。

「ここにはいませんよ」と用務員が言う。「昨日の夜、隣へ移す必要があったんで」

 隣。病院だ。「なぜ。どこか悪いのですか」

「さっぱりですよ。痙攣とチアノーゼを起こして――正直、一巻の終わりかと思いました。でも、いざ医者が調べてみると、どこにも悪いところは見つからなかった」

「意味がわかりませんね」

「同感です。あの頭のおかしいク――あれに関しちゃ、まるで意味がわからない」用務員はしかめ面でふらふらと廊下を歩いていく。

 ジャズミン・フィッツジェラルドは拘束衣のようにきつくたくし込まれたシーツの間に横たわり、まばたきもせずに天井を見つめていた。そばに座る看護士は、退屈と好奇心が綯い交ぜになった表情をしている。

「具合はどうなんでしょう」とトーマスは尋ねる。

「よくわかりませんが」と看護士。「今は大丈夫みたいです」

「私にはそう見えませんが。緊張病寸前に見えます」

「そんなことないですよ。ねえ、ジャズ?」

「申し訳ありません」フィッツジェラルドが楽しげに言う。「お探しの相手は席を外しております。メッセージを残していただければこちらからかけ直します」しばし間を置く。「あら、マイルズじゃない。会えて嬉しいな」視線は頭上の防音タイルから微動だにしない。

「近日中にまばたきをした方がいい」とトーマス。「目玉がからからに乾きそうですよ」

「慎重な編集で直せないものはないから」

 トーマスは看護士をちらりと見た。「少し話をさせていただけますか」

「ええ。俺はカフェテリアにいるんで、ご入り用でしたらお呼びください」

 トーマスはドアが閉まるのを待った。「さて、ジャズ。ヒッグス粒子の質量は?」

 フィッツジェラルドはまばたきし、

 微笑みを浮かべ、

 トーマスに顔を向ける。

「二二八ギガ電子ボルト」と言った。「なるほどね。誰かさんは私の研究計画書をちゃんと読んだんだ」

「あなたのだけではありません。それはティプラーの検証可能な予測のひとつですね?」

 微笑みが大きくなる。「とりわけ重要な、ね。他のは丸っきり自明だもの」

「あなたはそれを検証したと」

「うん。CERNでね。ティプラーの本はどうだった?」

「読んだのは一部だけです」とトーマスは白状する。「大変な苦行でした」

「ごめんなさい。私のせいね」

「どうしてでしょう」

「助けがいると思ったから、あなたの出力をちょっと上げたの。処理速度を向上させた。足りなかったみたいだけど」

 背中に走った震えを、トーマスは意識しないようにする。

「私には――」トーマスは顎をさする。今朝は髭剃りをし忘れてしまったのだ。「――それがどういう意味か、定かでないのですが」

「でしょうね。信じてもいないでしょうし」フィッツジェラルドがシーツの中で身をよじり、枕に背を預ける。「語義の違いにすぎないんだよ、マイルズ。あなたは妄想と呼ぶ。私たち物理オタクは仮説と呼ぶ」

 トーマスは納得のいかないまま頷く。

「ねえ、言ってみてよ、マイルズ。言いたくてしょうがないのはわかるから」

「続けて」なぜか自制が利かず、そう口走ってしまった。

 フィッツジェラルドが笑う。「そこまで言うなら教えてあげる、博士さん。何を間違えていたのかわかったの。全部自分でやらなきゃって思っていたけど、そんなの無理。変数が多すぎて、個々の変数にアクセスするにしても、一度に全体を把握するなんてできっこない。試しにやってみたときは、わけもわからずに全てを――」

 不意に表情が曇る。おそらく幾重にも綿密に築き上げた欺瞞を記憶が突き破ったのだろう。

「全てを台なしにしてしまった」ささやくように言い終える。

 トーマスは頷き、声を低く穏やかに保つ。「今、何を思い出していますか、ジャズ」

「何を思い出してるかなんてお見通しでしょ」とフィッツジェラルドがささやく。「あ――あの人を切り開いて――」

「ええ」

「あの人は死にかけてた。死にそうだったの。私はあの人を、コードを修復しようとしたんだけど、うまくいかなくて、でも……」

 トーマスは待つ。沈黙が広がってゆく。

「……どこが悪いのかわからなかった。どう間違えたかわからなければ、修復はできない。だから私は――切り開いて……」急に眉間に皺が寄る。なんの表れか、トーマスにはわからなかった。回想か、それとも悔悟の念か。

「ほんと、自信過剰だった」長い間を置いて、フィッツジェラルドはそう結んだ。

 違う。集中だ。防衛網を再構築し、血塗れの氷山の一角を水面下に押し戻そうとしているのだ。一筋縄ではいかないだろう。膨大な浮力で深みから押し上がろうとする巨大な氷山を前にして、ジャズミン・フィッツジェラルドが身をかがめ、気を張っていない態を必死で装っているのがわかった。

「きっと考えるのもつらいことでしょう」とトーマス。

 相手は肩をすくめた。「時々」勝者は氷山か……。「古風な頭に戻っちゃうの。古い習慣は簡単にはなくならなくて」それとも……。「でも、克服してみせる」

 渋面がほどけた。

 勝負あり。

「コア戦争の話をしたでしょう?」と明るい声で訊いてくる。

 ややあって、トーマスは頷く。

「ウイルスは全て自己複製するけど、優れたウイルスのなかにはマクロを――むしろミクロと言うべきかもしれないけど――他のアドレスに書き込むことができるものがあるの。単純なタスクを自律的に実行するちょっとしたサブルーチンをね。そしてマクロにも自己複製できるものがある。ここまではいい?」

「よくわかりません」トーマスは小声で言う。

「やっぱり出力をもうちょい上げておくべきだったか。とにかく、そういうちっぽけなルーチンはどんな帳簿も処理できる。それぞれ複数の変数を追跡していて、自己複製のたびに追跡できる変数が増えて、処理できる問題のサイズの制限はあっという間になくなる。オペレーティングシステムをそっくり書き換えることもできるし、小さなデーモンが働いてくれるから細かい部分を心配する必要もない」

「私たちはあなたにとってただのウイルスというわけですか、ジャズ?」

 笑い声が上がるが、嫌味ではない。「あのね、マイルズ。ウイルスってのはただの術語で、道徳判断は関係ないから。生命は自然選択によって形作られた情報だって言いたいの」

「そうしてあなたは学んだ――コードの書き換えを」

 首が横に振られる。「まだ勉強途中。でも常に上達してる」

「なるほど」トーマスは腕時計を見るふりをする。相変わらずジャーゴンはわからない。この先わかることもない。だがようやく、この女が何を言いたいのかだけはわかった。

 後は、最後の決まり文句を告げるだけだ。

「今はこれで充分です、ジャズミン。ご協力に感謝します。きっとつらい体験だったことと思います」

 首を傾げ、微笑みを向けてくる。「じゃあこれでさよなら? 私を治すには程遠かったね」

 トーマスも笑みを返す。筋繊維の収縮、表情筋の張りの増大、骨を覆う軟組織の伸縮が感じられそうなほどだった。純機械的なプロセスが生み出す、完璧なまでの不誠実。「そのためにここに来たわけではありませんから、ジャズ」

「ええ。私の適性を評価するのが、あなたの仕事」

 トーマスは頷く。

「それで」少ししてフィッツジェラルドが言った。「私に適性はある?」

 トーマスは息をつく。「まだあなたが直視していない問題がいくつかあると考えています。ですが勧告は理解できていますし、裁判所が投げかけるであろう手続きに従えることに疑いの余地はありません。法律上、あなたは裁判に立てるということです」

「ああ。つまり私は正気じゃないけど、罪を免れるほど狂ってもいないってことね?」

「うまくいくことを願っていますよ」これだけは間違いなく、心からの言葉だ。

「ええ、きっとね」あっけらかんと言う。「心配ご無用。いつまでここにいればいいの」

「おそらくあと三週間ほどかと。普通であれば三〇日間です」

「でも私との話は終わったんでしょう。どうしてそんなに長いの」

 トーマスは肩をすくめる。「差し当たり、他にあなたを置けるとこもありませんから」

「ああ」フィッツジェラルドは沈思黙考した。「ちょうどいいや。練習時間が増えるし」

「さよなら、ジャズミン」

「スチュアートを紹介できなかったのがとっても残念」とトーマスの背に声がかかる。「きっと気が合っただろうから。いつかあなたのところへ連れていくわ」

 ドアノブが動かない。もう一度試す。

「どうかした?」

「いや」少し食い気味にトーマスは言った。「別に――」

「ああ、それね。ちょっと待って」布団の中で衣擦れの音がする。

 振り返ると、ジャズミン・フィッツジェラルドは仰向けになって、まばたきもせずにまっすぐ上を見つめていた。呼吸は速くて浅い。

 手の中のドアノブが、微妙に温かくなったような気がする。

 トーマスは手を放した。「大丈夫ですか?」

「ええ」と天井に向かって言う。「疲れただけ。あなたも少し疲れたでしょ」

 看護士を呼ぼう、とトーマスは思った。

「ほんとだって、ちょっと休みたいだけ」最後にもう一度トーマスを見て、くすりと笑った。「でも、眠るまであと何マイルズも行かなくちゃ……」

「デジャルダン博士はいらっしゃいますか」

「私ですが」

「スチュアート・マクレナンを検視解剖したのはあなたですね」

 一瞬の沈黙。「そちらは?」

「マイルズ・トーマス。司法精神医学支援サービスの精神分析医です。ジャズミン・フィッツジェラルドは私のクライアントです――いや、でした」

 握った電話からはなんの音も聞こえない。

「報告書に目を通して評価をまとめていたところ、あなたの発見に気がつきまして――」

「あれは仮のものです」デジャルダンが遮る。「詳報を上げますよ、うん、近いうちに」

「ええ、それは承知しています、デジャルダン博士。ですが私の理解では、マクレナンは、そのう、致命傷を負っていたんですよね」

「魚のように内臓を抜かれていました」とデジャルダン。

「はい。ですがあなたの報――仮報告書には死因は〈不明〉と記されています」

「それは死因を特定できなかったからです」

「そこですよ。他に何があるのかと少々戸惑いまして。体内に毒素は見当たらず、少なくとも化学療法と無関係なものはなく、そして瘻孔と畸形腫の他は損傷もない――」

 手中の電話が吠え、ふっと不快な笑いが届く。「畸形腫が何かご存じですか」

「癌と関係があるのではないかと思ったのですが」

「原始性嚢胞という単語に聞き覚えは?」

「ありません」

「食事をしたばかりでないといいのですけれど」とデジャルダン。「時々、増殖細胞の塊が体腔内を漂うことがあります。何かの拍子に休眠遺伝子が活性化すると――色々なことが起こりえますが、結論を言えば、歯や髪の毛や骨を作る成長組織ができることがあるのです。時にはグレープフルーツほどに大きくなります」

「とんでもないな。それがマクレナンの体内に?」

「最初はそう思いました。腎臓に塊が見つかりまして。そこには目が生じていたんです。腹部リンパ節も同様に、髪の毛と爪のようなもので管が固まっていて。角質化してました」

「ぞっとしますね」トーマスはささやく。

「そりゃあもう。穴のあいた隔膜、ループの半分が融合していた小腸は言うに及ばず」

「ですが、患っていたのは確か白血病では」

「そうです。白血病で死んだわけではありません」

「では、その畸形腫がマクレナンの死に関わるなんらかの役割を果たしたと?」

「どんな役割かはわかりませんが」

「ですが――」

「すみません、回りくどくなってしまいましたね。私は、スチュアート・マクレナンは妻の食肉解体技術に殺されたのではないと考えています。発見された数々の異状は、そのうちのどれかひとつだけでも、瞬く間に命を奪っていたはずだからです」

「でも、そんなことはありえないでしょう。捜査官たちはなんと言っていましたか」

「正直、報告書を読んでいないと思います」デジャルダンがぼやく。「あなたも読んでなかったみたいですね。読んでたらもっと早くこちらへ連絡していたはずですから」

「その、私の評価にはあまり関係なかったので。それに死因は明らかに思えましたし――」

「無理もありません。股間から胸骨まで掻っ捌かれた人間を見て、何がその人を殺したのか知るのに報告書は必要ない。あんな先天性の畸形、誰が気にします?」

 先天――「そんな状態で生まれたってことですか」

「まあ、生まれることができたとは思えませんが。産声も上がらなかったでしょう」

「つまり――」

「つまり、スチュアート・マクレナンの妻が夫を殺せたはずはないのです。生理学的な観点からすると、生きていた可能性がそもそもないからです」

 トーマスは電話を見つめる。発言の撤回はない。

「ですが――二八歳だったんですよ! なんだってそんな」

「神のみぞ知る」とデジャルダン。「私に言わせれば、とんでもない奇蹟だ」

 おかしいのは、どこだろう。

 いまいち確信が持てないのは、自分が何を期待していたのか覚束ないからだ。暴かれた墓穴はなく、劇的に動かされた墓石もない。当然だ。ジャズミン・フィッツジェラルドなら、この繊細な力は露骨な芝居向きじゃない、と言うだろう。掘り返した山盛りの土や開かれた棺なんてあるわけがない。ただコードを書き直せばいいのだから。

 女は夫が安らかに眠る墓に胡坐をかいて座っていた。自称する力がなんであれ、降りそそぐ小雨を防いではくれないようだ。傘も持っていない。

「マイルズ」と顔も上げずに言う。「あなただろうと思った」幸福な否認で輝いていた晴れやかな笑顔はどこにも見られない。その顔は、二メートル下に眠る夫が浮かべているであろう表情と同じくらい、生気がなかった。

「こんにちは、ジャズ」

「どうやって見つけたの」

「あなたの姿が消えて支援サービスは大わらわでしたよ。あなたと面識がある人に片っ端から電話をかけて、脱走手段や居場所を探っていました」

 埋められて間もない土をフィッツジェラルドが指でいじる。「報告した?」

「ここは後になって思いつきました」嘘をつく。そして罪滅ぼしに言う。「それに脱走手段もさっぱりでしたし」

「わかるはずよ、マイルズ。自分でいつもしていることなんだから」

「続けて」トーマスはわざとそう言った。

 浮かんだ微笑みはしかし、長続きしなかった。「私たちは同じ方法でここに着いたでしょ。あるアドレスから次のアドレスへ自分をコピーして。唯一の違いは、あなたはまだAからB、BからCへ移動しなきゃいけないこと。私はいきなりZへ飛んだってだけ」

「受け容れがたいですね」

「生粋の懐疑主義者ねえ。認識できないんじゃ天国を楽しめっこないよ?」ようやく顔を上げた。「『きみは経験主義と頑迷の違いを知るべきだ、博士』。引用元、わかるかな」

 トーマスは首を振る。

「仕方ないね。どうでもいいことだもの」また地面を見つめる。濡れた髪の毛の束が顔にかかる。「私が葬儀に行くのは許してもらえなかったでしょうね」

「許可など必要ないように見えますが」

「今はね。二、三日前は違った。まだバグを取り除いてなかったから」片手を濡れた土に突っ込む。「私があの人に何をしたか、知ってるんでしょう」

 ナイフの前に、という意味だ。

「いや――あまり――」

「知ってるんでしょう」と繰り返し言う。

 結局トーマスは頷いたが、相手は見ていなかった。

 雨脚が強くなる。トーマスはウィンドブレーカーの下で震える。フィッツジェラルドは気づいていないようだ。

「それで、今は何を」ようやくトーマスは尋ねる。

「さあね。最初はごく単純に思えた。私はスチュアートを愛してた、完璧に、なんの留保もなしに。方法を学んだらすぐ蘇らせるつもりでいた。次こそちゃんとやるんだ、って。今もあの人を愛してる、本当に愛してるけど、全てを愛してるわけじゃない。がさつな一面もあった。音楽の趣味が最低だった。で、今はこう思ってる。どうして蘇生止まりなの? ちょっと微調整を加えてもいいんじゃないの、って」

「そんなことをする気なんですか」

「わからない。変えるものを色々検討してみるつもりだけど、結局は一から作った方がいいかも。その方が――手間もかからないし。計算のね」

「あなたの妄想であってほしいものです」言わない方がいいことだが、急にどうでもよくなった。「妄想じゃないとしたら、神はとことん無慈悲なろくでなしですから」

「そうね」と言う声は興味もなさげだ。

「万物は単なる情報です。私たちはどこかのモデルの中で相互作用するサブルーチンにすぎない。となると、重要なものなんてありはしませんよね。あなたは近いうちスチュアートのデバッグに取りかかるのでしょう。急ぐことはない。後回しでもいい。ただのマイクロコードで、取り返しのつかないものはないのだから。だとすれば、何もかもどうでもいいということにはなりませんか。そんな宇宙の何を神が気にかけるって言うんです?」

 ジャズミン・フィッツジェラルドは墓から立ち上がり、手の泥を拭う。「気をつけて、マイルズ」うっすらと笑みが浮かぶ。「私を怒らせたくはないでしょ」

 トーマスは目を合わせた。「まだ怒らせることができるなら、嬉しい限りです」

「一本取られちゃった」濡れた睫毛と顔を伝う雨の小川の奥には、まだ輝きが残っていた。

「それで、何をするつもりですか」トーマスはもう一度尋ねる。

 フィッツジェラルドは濡れそぼる墓地を見渡す。「全てを。あちこちをきれいにして、穴を塞ぐつもり。理に適った値にプランク定数を書き換える」トーマスに笑みを向ける。「でも今のところは、どこかでしばらく考え事をしようと思ってる」

 そうして墓から下りる。「告げ口しないでくれてありがとう。違いはなかったかもしれないけど、気持ちは嬉しい。きっと忘れないわ」そう言って雨の中を歩き去る。

「ジャズ」トーマスは後ろから呼びかけた。

 振り返ることなく女は首を振る。「忘れて、マイルズ。誰も私に奇蹟をくれなかったのよ」立ち止まり、さっと振り返る。「それに、あなたは準備ができてない。私が催眠術をかけたとでも思ってるんでしょう」

 止めなければ、とトーマスは自らに言い聞かせる。あの女は危険だ。妄想に囚われている。私が幇助や教唆で訴えられることもありうる。止めなくては。

 止められるものなら。

 女は雨の中、あの明るく無垢な笑顔の思い出を残していった。何かが通り抜けるのを感じてなどいないと、あと少しで確信が持てそうだった。いや、あるいは感じたのかもしれない。淀んだ水面に波紋が広がるような感覚。電子の巧妙な再編成。世界の在り方の些細な変化。

 あちこちをきれいにして、穴を塞ぐつもり。

 あの言葉で何を言わんとしていたのか、マイルズ・トーマスにはわからない。それでも恐れが湧いてくる――じきに、そう遠くない未来に、どこにもおかしなところはなくなるのではないだろうか、と。

 初出はスーザン・マグレガー編の Divine Realms(一九九八年)。『マトリックス』が公開されるずっと前のことだ。

Launch Date: Feb. 26, 2021

Last modified: Feb. 26, 2021

index »