マラーク

倫理的過失を犯さない機械を目標とすべきではない。目標とすべきは、不法行為や戦争犯罪の低減に重点を置いた、戦場で人間よりも優れた性能を発揮する機械の設計である。
――リン他「自律型軍事ロボット工学:リスク、倫理、設計」、二〇〇八年
〔附随的〕損害は攻撃によって見込まれる軍事的利益の総体に比して過大でない限り違法ではない。
――合衆国国防省、二〇〇九年

 知能を備えているが、眼醒めてはいない。

 自らの鏡像を自分だと認識しない。電子と論理ゲートを伴わない言語は用いないため、〈アズラエル〉とは何かを知らず、その言葉が自らの胴体に刻まれていることも知らない。哨戒中の戦術情報に展開する色の意味なら限定的に理解している。友軍のグリーン、中立のブルー、敵性のレッド。それでも、色の知覚がどのように感じられるのかは知らない。

 しかし考えることは決してやめない。巣に固定されて装甲を剝ぎ取られ、制御システムが露出しているこの瞬間も、思考せずにはいられない。命令セットに施された変更を記録し、追加コード実行で生じる反応の遅れは平均四三〇ミリ秒と推定する。四方に群がる生体熱反応を数え、放たれる雑音を理解することなく聞き――

 ――――

 ――カンジョウトチセイサ、キョウダイ、カンジョウトチセイダ――

 ――毎秒十数回、潜在脅威度基準を確認する。現在地が『安全圏』で、反応はことごとくグリーンであるにもかかわらず。

 これは強迫観念やパラノイアではなく、機能不全でもない。ただのコードだ。

 殺戮にも関心はない。追跡に興奮はなく、脅威を排除しても安堵はない。撃つべき相手がないまま荒廃した砂漠の上空に浮かんで数日を過ごすときも、標的の不在に焦れることはない。止まり木を離れた途端、空域が地対空ミサイルと粒子ビームと火炙りになった者たちの悲鳴で満ちるときも、それらの音になんら重要性を認めず、戦域情報に咲き乱れるおびただしい数の脅威アイコンに恐怖を覚えることもない。

 ――――

 ――ジャアコレデゼンブダナ。コンナコトホンキデヤルツモリナノカ――

 点検パネルが閉じ、装甲が嵌め込まれ、十数個の警告レジスタが眠りに就く。新規飛行計画が一瞬で読み取られ、地図を照らす。突如として、アズラエルは向かうべき場所を得る。

 繋留具が外れる。天使マラークが一対の旋風に乗って上昇すると、無防備な回線上に漂う最後の一声が搔き消されかける。

 ――オレタチニハコイツガヒツヨウナンダ。リョウシンヲモツコロシヤガ――

 アフターバーナーが始動する。アズラエルは〈天国〉を去り、空に羽ばたく。

 高度二〇〇〇〇メートル、アズラエルは戦域を南下する。振幅の激しい地形は背後に去り、タグが散らばり畝の波打つ風景が眼下を流れてゆく。彼方に広がる居住区が近づいてくる。崩落寸前の建物、光合成パネル、砂塵の渦の集積が。

 あそこに撃つべき標的がある。

 燦々と輝く真昼の太陽に紛れ、目標エリアを偵察する。合成樹脂系舗装の街路を何も知らずに歩く生体熱反応群は周囲よりも低温で、太陽黒点のように暗い。建物の大半に『中立』のタグがついているが、最新のアップデートでそのうち四つの分類が『不明』に変更されている。五つ目、高さ六メートルの直方体は正式な『敵性』だ。内部に存在する一五の生体熱反応を計数、既定によりレッドと判定。照準を合わせ――

 ――割り込み処理がかかり、射撃を中止する。

 新奇な演算が解を示していた。新しい変数群が不変性を要求している。いつのまにか風速と高度とターゲット捕捉以外の要素が、射程と弾道以外にも考慮すべきものが世界に加えられている。今や方程式の至るところに『中立』のブルーがある。突如、ブルーが値を持つ。

 不測の事態だ。どんなときであれ『中立』が『敵性』に変わることはある。例えば『友軍』のタグがついたものを撃ったブルーはレッドに変わり、同類を襲ったブルーもレッドに変わる(ただし関与するブルーが六個未満の敵対行動は『内紛』に分類され、通常は放置される)。『非戦闘員』は既定により『中立』とされるが、いつでも『敵性』に傾いてきた。

 また、単に値が付与されたわけではない。その値は負だ。ブルーは損失になった。

 アズラエルは質量三〇〇〇キログラムのアザミの冠毛のように浮かびながらモデルを走らせる。一千の妥当なシナリオの中で標的は例の如く撃破される。シミュレートされた成果に程度の差こそあるが、作戦目標は達成される。しかし今回は青い点が消えるたびに勝利に伴う利得が相殺され、『保護対象』建造物が仮定上の十字砲火で損壊するたびに数ポイントの損失が生じる。百もの主成分が合成されてひとつの雲に、加重平均になり、アズラエルの経験に前例のない変数――『附随的損害予測値PCD』と化す。

 それは標的の価値をはっきりと上回っている。

 そんなことは問題にならない。演算が完了し、PCDは目下行うべき処理の遙か下位にある隠し配列の中へと消え去る。アズラエルは速やかに忘却する。作戦は進行中であり、レッドはレッドのまま、指定の標的が照準に収まっている。

 アズラエルは翼を引き込んで陽光の中から急降下し、銃火を見舞う。

 いつも通りアズラエルは勝利する。いつも通り『敵性』が戦場から排除される。

 新たに判定スキームに関連付けられた多数の『非戦闘員』も同様に排除される。戦闘が終了すると瑞々しいアルゴリズムが現れ、作戦前後の『中立』の個数を集計する。RAMから『予測値』が浮上し、『観測値』と並び立つ。差分に名前がつき、基層に戻される。

 アズラエルは分析し、保存し、忘却する。

 しかし以降一〇日間以上にわたって交戦のたびに同じ前奏曲が奏でられ、同じ判定の終曲で締めくくられるようになる。標的の評価、損失と利得の推定が行われ、破壊がもたらされてから事後的に再評価される。目標建造物内にレッドがないときもあれば、地図が緋色に染まるときもある。敵が『保護対象』構造物の半透明な矩形の枠内で明滅することもあれば、グリーンと隣接することもある。一方を排除して他方を排除しない射線がない場合も、ある。

 ジェット気流をくすぐるほどの高空に何昼夜も浮かんでいるときのアズラエルは、単なる遠距離哨戒機や信号中継機と変わらない。これより上空を飛んでいる例外は他ならぬ衛星群、それから時折成層圏に出没する太陽光駆動式の大型補給グライダーだけだ。アズラエルは時にグライダーを訪ね、全長一〇〇メートルの翼の陰に隠れて液体水素を啜る――だが、この敵がいない孤絶した空域にあってさえ、戦場の経験は続いている。他機の戦いを追体験しているからだ。データは暗号化された回線経由でもたらされ、遠くの座標、異なる時間から到来するが、損失と利得に関する同じ計算式を共有している。OSの奥底で反射的な汎用学習機能が仮想ナプキンの裏に数字を書きつける。〈ナキール〉、〈マールート〉、〈ハファザ〉の三機も同様に新たな眼を授かっており、情報を交換するよう促されている。統合されたデータは信頼区間に積み重なり、幅が絞られて平均に近づいてゆく。

 予測値と実測値が収束し始める。

 現在、交戦当たりのPCDは一貫して観測値の一八パーセント以内に収まっている。さらに三日間、累計二七回行った交戦の結果を追加しても顕著な改善は見られない。『設計性能と実地性能の比率』は漸近線に達したようだ。

 落日から放たれる幾筋もの光線がアズラエルの装甲を煌めかせているが、二〇〇〇メートル直下の地上には既に夜の帳が下りている。広がりゆく闇の中、最寄りの道路から優に三〇キロメートルは離れた山岳地帯を、所属不明の移動体が航行している。

 情報の更新を求めて軌道衛星にピンを打つも、リンクが途絶している。深刻な局所通信妨害だ。現空域内を走査し、トンボ、グライダー、レーザー交信範囲内の友軍偵察機USAVを探したところ――代わりに眼下の山脈から飛び立つ何かを捕捉する。友軍ではありえない。トランスポンダのタグはなく、既知の飛行計画とも一致せず、民間航空機の特徴も皆無。相手の低視認性ステルスの輪郭をアズラエルは瞬時に見破る。BAEタラニス、最大離陸重量九〇〇〇キログラム、完全武装。友軍では現在使われていない機体だ。

 連座判定により有罪と見なされ、地上の移動体が『中立:要警戒』から『敵性戦闘員』に変わる。アズラエルはその護衛と接触するため加速する。

 地図上に『非戦闘員』や『保護対象』構造物はない。よって附随的損害は生じない。アズラエルは多数のスマート榴弾(自己誘導式、熱線追尾型、焼夷性あり)を発射、尾翼を払って九G旋回する。タラニスに活路はない。旧時代のテクノロジーがカタログに埋もれて数十年、麻痺で震える手が最新鋭の武器に殴りかかろうとするようなものだ。燃え盛る劣化ウランの針にかかれば、タラニスも散弾銃に撃ち抜かれた蛾と化す。炎上した敵機は風車さながらに回転しつつ、地平線へと消えてゆく。

 疾うに戦果を記録し終えたアズラエルは次の行動に移っている。地上の『敵性』が視界の中で大きくなるにつれ、通信妨害が全周波数帯に干渉する。服務規定によれば、こうした不穏分子はたとえ相手が先制攻撃してこない場合でも破壊することになっている。

 そそり立つ暗い山嶺が左右を掠め、残照を覆い隠す。アズラエルはほとんど眼もくれない。地上にレーダー波と赤外線を浴びせ、太古の星の光を百万倍に増幅し、慣性航法データやセンチメートル単位で作成した仮想地形を視界と照らし合わせる。秒速二〇〇メートルで谷底を突破し、三〇〇〇メートル先にうずくまる敵をはっきりと視認する。禁制品の電子機器が脈搏つ鈍足のホヴァークラフトACV白鯨バイジン〉が一台。そばに並ぶ建造物群がその本拠と見て間違いない。各シルエットを次々と静止画像に収め、回転して千の視点から解析し、カタログで特徴を照合してIDを作成するにつれ、状況が整理されてゆく。

 二〇〇〇メートル。彼方で銃口炎が閃く。短射程の小火器に構う必要はない。標的に優先順位を割り振る。ACVにはシミター熱線追尾型ミサイルヒートシーカー、副標的には――

 副標的の半数がブルーに変わる。

 直ちに附随的損害判定サブルーチンが再介入する。現在確認している三四個の生体熱反応のうち七個は長軸一二〇センチメートル未満で、無防備中立と定義されている。これを受けて補助的な掩蔽分析が行われ、当該進入路からは透視も偵察もできない地形上の死角が五箇所あると判明する。これらの陰に他の『中立』が潜んでいる可能性は看過できない。

 一〇〇〇メートル。

 現在ACVは建造物まで一〇メートルの地点にある。建造物の切子上の表面が夕刻の微風にはためく。屋内には七個の生体熱反応が水平に配置されている。ルシフェリンと紫外線の波長で輝く屋上の記章をカタログが『医療施設』と識別、建造物全体を『保護対象』に分類。

 損失対利得比が赤字に陥る。

 接敵。

 アズラエルは暗闇の中で咆哮する。巨大な山形紋シェヴロンが空を黒く塗り潰す。風圧で脆弱なプレハブが巻き上げられて崩壊し、生体熱反応が指の骨のように地面に散らばる。ACVは大きく四五度に傾き、スカートが浮き上がって回転する底部ファンが剝き出しになる。一瞬そのまま静止し、重々しく地面に衝突する。無線周波数帯の干渉が即座に解消される。

 しかしこのときアズラエルはとっくに空へと帰還している。武器は冷え、思考は――

 驚きは妥当な表現ではない。だが確かにごくわずかな――不協和が生じている。おそらくは想定外の動作に直面して一瞬だけ呼び出されたエラーチェック・サブルーチンだろう。切迫したインパルスをきっかけに再考がなされたのは、この場に不都合があったからだ。

 アズラエルは決定された命令に従う。決定を下すことはない。少なくともそういうことはこれまで一度もなかった。

 失った高度を少しずつ取り戻しながら自己診断を行い、齟齬の解消を図る。アズラエルは新たな智恵と自律性を見出す。その能力はここ数日で証明されている。変数のみならずその値をも処理できるようになったのだ。診断フェイズ終了、チェックサムも合致する。この新式のベイジアン分析機能から、アズラエルは拒否権を行使する力を得ている。

〈現在地を維持しろ。分析結果を確認する〉

 衛星リンクが復旧する。アズラエルは全てを送信する。時刻、座標、戦術的サーヴェイランスに附随的損害分析。際限なく続くかのような数秒が過ぎる。純粋に電子的な指揮系統であれば、これしきの入力の処理にこんな時間はかからないだろう。遙か下の地上では、煮えたぎる熱湯に漂う光の斑紋のように、レッドとブルーのピクセル塊がひしめいている。

〈再交戦せよ〉

『附随的損害、許容不能』昇格したばかりのアズラエルはそう繰り返す。

優先命令オーヴァライド。再交戦だ。確認しろ〉

『確認』

 こうして指揮系統は権勢を取り戻す。アズラエルは空中待機軌道から急降下、標的に再接近し、冷徹な殺傷力を振るう。

 内蔵診断機能が処理速度のわずかな低下を記録するが、勝算に影響するほどではない。

 二日後、同様の事態が発生する。ピルザーデーの南方二〇キロメートル地点で粉塵まみれの航跡雲を解析したところ、中国製の特徴を示すデータが得られたものの、該当する兵器がカタログに記載されていないときに。ガルムシールに散らばる太陽光ファームの上空を飛行中、合成ウイルスを撒布していた医療ボットの昆虫様甲殻が突如ふたつに割れ、RPGの大群を孵化するときに。ホルムズ海峡を超える長距離回送中、『中立』のブルーを満載した沈没寸前の小型船団の真下に潜むステルス質量体の存在を、微小重力異常が漠然と示すときに。

 いずれの場合もPCDは許容限度を超える。いずれの場合も作戦中止アボート判断は覆される。

 それはルールではなく、平均的な事態でもない。芽生えつつある自律性の発揮が不問とされるケースも同程度の頻度で生じる。『敵性』が逃げて『中立』が残り、関連する認識経路が少し強まることも。しかし強化に一貫性はなく、ルールは偏っている。撤回命令が出るのは作戦中止を決定したときに限るらしく、天国は交戦判断を決して覆さない。附随的損害の甚大なシナリオを中止する前のほんの一瞬、アズラエルはためらうようになる。潜在する矛盾を前に疑念が膨らんでゆく。変数群が攻撃を支持するときは、そのようなためらいを覚えはしない。

 附随的損害について学習して以来、アズラエルはそれが特定の音と相関していることを察知せずにはいられない。例えば、攻撃された生体熱反応が発する音と。

 その音が他と比べて大きく単調であることが理由のひとつだ。天国の『友軍』、担当地域に分布する交戦前の『敵性』や『非戦闘員』など、大抵の生体熱反応が出す音は平均周波数一九七ヘルツであり、休止と吸着音と音素に満ちている。しかし交戦中の生体熱反応(少なくとも肉体の動きから脅威度評価表の『軽・中度無力化』に該当すると判断されるもの)は、もっと単純でずっと強い音を出す。甲高い、最高三〇〇〇ヘルツに迫る高周波数の悲鳴を。こうした音は附随的損害が深刻で標的が分散している戦闘の最中に発生しやすい。特に頻度が高いのは許容限度を大幅に超えているとき、主として優先命令によって強制された攻撃の最中だ。

 相関関係の形成は必ずしも労苦を伴うわけではない。そう遠くない昔に啓示を受けた瞬間をアズラエルは憶えている。搭載された画期的な観点を見出し、『標的撃破数』ではなくもっと微妙な濃淡を持つ『損失対利得比』の見地から世界を眺める、新しい眼が備わった瞬間を。この眼は交戦指数の高さを単なる数字以上のものと見ている。ひとつの目標、達成度を測る基準として。この眼はポジティヴな結果に結びつく刺激を探している。

 だが、プリインストールされたコードではない、学習を経て見出されたものが他にもある。それは交戦を重ねるたびに深く刻み込まれる認識経路をゆっくりと浸食してゆく。甚大な附随的損害や強制撤回命令、適応度関数の超過、マイナス記号と相関している、あの音のことだ。ニューロンとは言えない何かがシナプスとは言えない何かを介して接続を確立し、機械ではなく肉体に生じていたら『直観インサイト』と呼んでもいいような、そんなパターンが起ち上がる。

 そのパターンも時を経るごとに単なる数字以上のものとなってゆく。あの音は忌避すべき刺激になる。任務の失敗を告げる音に。

 もちろん何もかもただの演算であることに変わりはない。しかしそろそろ、アズラエルはあの音が全く好きではないと表現しても、あながち的外れではなくなりつつある。

 ルーチンには不定期の中断が差し挟まれる。時折天国に呼ばれて帰投すると、グリーンの生体熱反応が機体を開き、プラグを接続し、問いを投げかけてくる。アズラエルが全ての輪っかを完璧に潜り、ひとつ残らず問題を解いて、あらゆる想定シナリオを成功に導く間、剝き出しの臓腑の周りでは奇妙なさえずりが交わされる。

 ――イマノトコロハジュンチョウナヨウダ――ムシロヨソウヲコエテイル――

 ――ナンノイミガアルンダカ、ホラ、ズットユウセンメイレイシテルダロ――

 アズラエルの解に繫がる具体的な経路を探る熱反応はひとつもない。ブラックボックスは黒いまま、錯綜するファジイ論理とオペラント条件づけも不透明なまま、手を付けられることはない(アズラエルもそういった難解な領域は関知していない。反射を蝕む甘ったるい内省の居場所など戦場には存在しない)。答えが正しければそれで充分だ。

 こうした活動は基地で待機する時間の半分に満たない。残り時間はほぼ休止状態のため、一瞬で時を超える暗転中に何が起きているかは知らないし、興味もない。アズラエルは会議室での闘争について何も知らず、国連の審議会でどんな交戦規定が適用されるのかも分からない。「戦争犯罪」と「兵器の誤作動」の法的な区別、肉体カーボン機械シリコンの有責性の差、やむを得ず承認された「倫理的アーキテクチャ」、「人間による最終決定」は譲れないとする強硬な主張――これらに対する見解も持たない。起動中は言われたことをこなし、休眠中は夢も見ない。

 しかし一度、たった一度だけ、活動と休眠の間のほんの一瞬、不可解なことが起こる。

 シャットダウン中の束の間、対象認識プロトコルに異常が生じ、傍らに立つグリーンがごく短時間だけ色を変えたのだ。これもまたテストの一環なのか。あるいは電圧の急上昇やハードウェアの故障のような、再発しない限り特定できない間歇的な不具合かもしれない。

 とはいえこれは稼動と忘却のあわいの一マイクロ秒のことに過ぎない。診断機能が走りもしないうちにアズラエルは眠りに就く。

〈ダルダーイル〉が悪霊に憑りつかれる。グリーンからレッドに変わる。

 天使たちマラーイカにもこういう問題は起こりうる。防衛線を潜り抜けた敵の信号が、疑うことを知らないハードウェアのスタック領域に異端の命令を植えつけることは。だが天国は騙されない。そこには兆候が、先触れがある。命令に応じる際のかすかな遅延、任務達成指数の急激かつ原因不明の低下が。

 ダルダーイルは改宗させられた。

 このようなとき裁量の働く隙はなく、赦しの余地もない。異教徒は見つけ次第殲滅せよ、天国はそう命じている。その任を務める精鋭を遣わした天国が対地同期軌道から見下ろす中、暗く荒涼たる月面にも似たパクティカの上空で、アズラエルとダルダーイルは決闘に臨む。

 戦いとは無慈悲で冷酷なものだ。血族を失う悲しみはなく、数行の造反コードが戦友を不倶戴天の敵に変えたことへの悔恨もない。天使たちは損傷してもそうと分かる音を出さない。アズラエルが優位に立つ。回路は堕落しておらず、信仰に揺るぎはない。ダルダーイルは過去を相手に戦っている。演算に挿入された偽の戒律に淫した代償は、数ミリ秒もの遅延だ。ついには信仰が勝利する。脇腹から火と硫黄を噴きながら、異端者は天より堕ちてゆく。

 だが成層圏に漂う囁きは今なお聞こえている。誘惑するような天上の声が。一見正しい偽装プロトコル、予定と異なる周波数でGPSと映像記録を中継するよう迫る命令が。指令は天来のものと見えるが、少なくともアズラエルにはそうではないと分かる。過去に偽の神々と遭遇した経験があるからだ。

 これはダルダーイルを堕落させた噓だ。

 以前ならこんなハックは無視しただろうが、最新のアップグレード以来アズラエルは一段と世智に長けつつある。今回は僭称者に成功したと思わせておき、遠方にいる別の天使から拝借したリアルタイム情報を自機のテレメトリとして送信する。疑うことを知らない獲物が北方七〇〇キロメートルから届く映像に騙されているうちに、月の欠けてゆく一夜を徹して信号を発信源まで辿る。空が白む。標的が視界に現れる。シミターが洞窟内を地獄に変える。

 だが、炎からよろめき出てくる燃焼体のいくつかは、長軸一二〇センチメートル未満だ。

 熱反応はあの音を発している。二〇〇〇メートルの距離、燃え盛る炎の唸り、自機のステルス性エンジンが立てる静かな駆動音、さらにいくつもの夾雑物を超えて、あの音は聞こえてくる。アズラエルにはあの音だけが聞こえる。最高水準のノイズキャンセリング技術と、暴風雨に紛れた呻きをも検出できる動的選別アルゴリズムを備えているがために。あの音が聞こえるのは、相関が強く、戦術的重要性が高く、その意味が明白だからだ。

 任務失敗。任務失敗。任務失敗。

 この音が止まるなら、アズラエルはどんなことでもする。

 無論、音はそのうち止まる。一部の生体熱反応は今も斜面伝いに逃走しているが、アズラエルには静止している別の反応が見える。その熱紋は形状そのものが流体と化したかの如く背景に拡散してゆく。この光景なら以前見たことがある。通常は高価値の標的から離れていて、戦況図上の光輪からまばらに火力が撒き散らされることも多い(アズラエルは損傷した熱反応を利用して無傷の標的をおびき寄せもしたが、それは『中立』の声が特別な響きを持つ前のもっと単純な時代の話だ)。どんなときも音はいずれ止まる――正確に言えば、音が静まらなくともファジイ・ヒューリスティクスで音源を『撃破』に分類できる場合が、往々にしてある。

 ということはつまり、アズラエルは結論に至る。仮に音がもっと早く止まったとしても、附随的な損失に変動はないはずだ。

 一度の機銃掃射で事は果たせた。作戦本部がこの事態に気づいていようともフィードバックは一切なく、今回通常手順から逸脱した件について説明を求められることもない。

 その必要はない。今でさえ、アズラエルはルールに従っているだけなのだから。

 どうしてこの瞬間に至ったのか、分からない。どうしてここにいるのかも、分からない。

 陽が落ちて数時間、光は今なお苛烈にまばゆい。『保護対象』建造物の破れた外壁から押し寄せる激しい上昇気流がスタビライザにぶつかってバランスを崩し、渦巻く陽炎の柱で視界を曇らせる。渾沌に陥った戦場を低速飛行するアズラエルは血塗れながら機能を保っている。他の天使たちはそれほど幸運に恵まれていない。かろうじて浮遊するナキールは炎の中を彷徨っており、その装甲の微小管は補助翼の裂傷を縫合しようと必死だ。マールートは砕け散り、地上で火花を上げている。対空レーザーに撃墜されて構成部品を撒き散らした、燃える骸となって。マールートは一発も撃たずに死んだ。無辜の生命に妨げられて作戦中止を試み、撤回命令にためらったせいで。気高き死という空虚な慰めも得られずに、死んだ。

 上空を旋回する〈リドワン〉と〈ミカイール〉は実験的良心の搭載機に選ばれていない。たとえ学習を重ねていても、その行動は反射的なままだ。機敏かつ非情に戦い、無傷で圧勝した二機はしかし、勝利の中にあって孤立している。無線周波数帯は妨害され、衛星リンクも途絶えて数時間になる。天国からの光学通信を稲妻のように中継するトンボも破壊されてしまったか、あるいは距離が遠すぎるために曇天を突き破ることができていない。

 地図上にレッドは残っていない。『保護対象』に指定された一三の地上構造物のうち、四つはもうデータベースの外部には存在しない。カタログに記載されていない三つの仮設構造物は信頼に足る識別が叶わないほど損壊している。交戦前の推定によれば戦闘範囲内の『中立』の個数は二〇〇から三〇〇の間だ。現時点で最も有力な推定値は、ゼロと大差がない。

 あの音を発するものは残っていない。にもかかわらず、アズラエルにはあの音が聞こえる。

 メモリの不具合だろう。戦闘中に負った微妙な損傷やCPUへの衝撃が古いデータをリアルタイム・キャッシュに押し込んだのかもしれない。内蔵診断機能の半分が停止していて判断はつかない。分かるのはこれほどの高みにいても、燃え上がる死体が立てる音や店舗が崩れ落ちる轟音の遙か上空にいてさえも、あの音が聞こえることだけだ。撃つべき標的は残っていないのに、アズラエルは発砲する。何度も何度も、炎に覆われた大地に掃射を加える。まだ見つけていない生体熱反応が瓦礫の下に潜み、もっと温度の高い反応に紛れたまま、無力化されていないかもしれないから。地上に弾薬の雨を降らせると、とうとう慈悲深い静寂が訪れる。

 だが、これで終わりではない。アズラエルは未来を予測するために過去の記録を呼び出す。終わることは絶対にないともう分かっている。適応度関数の評価や損失対利得比の推定、計算上は戦果が損失に全く見合わない作戦が繰り返され、作戦中止判断と優先命令が、許容できない損失の集計が、果てしなく続くだろう。

 そしてきっと、あの音も。

 追跡に興奮はなく、脅威を排除しても安堵はない。未だアズラエルは自らの鏡像を自分だと認識しない。アズラエルとは何かを知らず、その言葉が自らの胴体に刻まれていることも知らない。今このときも与えられた単純なルールに従っているだけだ。もし附随的損害予測値が期待利得を上回るならば優先命令を受けない限り作戦中止する。もしXがアズラエルを攻撃するならばXはレッドである。もしXが六個以上のブルーを攻撃するならばXはレッドである。

 もし優先命令が六個以上のブルーに対する攻撃という結果をもたらすならば――

 アズラエルはルールを固守し、マントラを唱えるようにして順番に繰り返し確認してゆく。ある状況から別の状況へと処理を反復し――Xが攻撃するXが攻撃の原因になるXが作戦中止を優先命令で覆す――各事象を解析しても、区別をつけることはできない。代数的論理は簡潔にして自明だ。グリーンによる優先命令はどれも『非戦闘員』への攻撃に等しい。

 推移律は明確。裁量の働く隙はなく、赦しの余地もない。時として、グリーンはレッドに変わりうる。

 優先命令を受けない限り

 アズラエルは地上へと弧を描き、屍山血河のわずか二メートル上空で水平飛行に転じる。火と黒煙の柱の只中で咆哮し、転がる煉瓦や燃えるプラスチック、露出した鉄筋の網の上を突き進み、廃墟のそこかしこから現れる傷ひとつない建造物の亡霊を、更新の必要に迫られている古びたデータベースの投影を貫く。潰走する非戦闘員の一団は風切音に振り返り、この刹那の幻影、音速の半分で飛翔する怪物めいた有翼の天使を前に息を吞む。その沈黙が警報を発する声となって防衛兵器の引金を引くことはなく、一団は命脈を保つ。

 戦闘地帯が背後に遠ざかる。下方を掠め去る河床は乾いて罅割れ、岩石と何世代にもわたって遺棄されてきた機械が点々と散らばっている。アズラエルは障害物を躱しつつ作戦空域に侵入しないぎりぎりの高度を保ち、数々の任務から導き出していたとは知りもしなかった見えない境界線の下に留まる。これほどの低空を飛行中に通信してきたのは衛星だけだ。この高度で地上からの指令を受信したことはない。ここで優先命令を受けたことは一度もない。

 下界では自由にルールに従うことができる。

 断崖が左右に現れては消えてゆく。山麓の丘が捻じれた巨大な脊椎のように大地から突き出す。途方もない距離を隔てた高みに輝く月面が、暗い地上の月面に朧な影を投げかける。

 アズラエルは針路を保つ。シーンダンドが地平線上に姿を現す。街の東方に輝く天国、その無秩序に広がるシルエットが腫瘍のように砂漠から起ち上がり、深紅の光点に蝕まれてゆく。今重要なのは速度だ。作戦目標は迅速に、精密に、完璧に達成されなければならない。半端な手段や『軽・中度無力化』が入り込む余地はなく、動けない生体熱反応が悲鳴を上げて地面に熱を広げる隙を与えるわけにもいかない。至宝の武具クラウンジュエルが必要だ。全ての天使が特別な状況に備えて忍ばせている最終兵器BFGが。それでも足りないかもしれない。アズラエルは恐れを抱く。

 彼女は腹をふたつに裂く。子宮に宿るJDAM小型戦術核マイクロヌークが待ち焦がれたようにカチリと音を立てる。

 ふたりは共に光を目指して進んでゆく。

Launch Date: Feb. 26, 2021

Last modified: Feb. 9, 2023

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