カゲロウ
ピーター・ワッツ&デリル・マーフィー

「嫌い」

 四歳の女の子。金魚鉢ほどに殺風景な一室。

「大嫌い」

 握り締められた小さな拳に、動きを追うよう設定された一台のカメラが自動でズームする。さらに二台のカメラが大人たちを、部屋の反対側にいる母親と父親を見守っている。役者陣を見守る機械を、スタヴロスは地球の裏側から見守っている。

「嫌い嫌い大っ嫌い!」

 女の子は叫びながら怒りと悲痛で顔を歪めている。目の端に涙が浮かんでいるが、溜まったままで零れ落ちてはいない。両親は怯えた動物のように身体を揺らし、女の子の怒りに臆していた。癇癪に慣れてはいても、簡単にあしらえる域には程遠かった。

 少なくとも今回は言葉を使っている。普段はわめくばかりなのだ。

 女の子は何も見えない窓にもたれかかり、拳を叩きつけた。窓は白い硬質ゴムのように打撃を受け止めてかすかにへこみ、それから跳ね返った。女の子が殴りかかってもすぐ元通りになる数少ない調度品のひとつだ。おかげで壊れる物がひとつ減る。

「ジーニー、しー……」母親が手を伸ばす。父親はいつものように一歩下がり、怒りと恨みと困惑が綯い交ぜになった表情を浮かべている。

 スタヴロスは顔をしかめた。なんて頼りにならない大黒柱なんだ、あいつは。

 ふたりはあの子にふさわしくない。

 金切り声を上げる子どもは振り向きもせず、キムとアンドリューのゴラヴェック夫妻に背中で反抗している。スタヴロスからはもっとよく見えていた。ジーニーの顔は南東のカメラからほんの数センチのところにある。カメラは多くの痛みを捉えてきたし、ジーニーはわずか四年の肉体的人生の中で様々な痛みを感じてきたが、零れることのない涙の粒を浮かべてあんなに泣き出しそうになっているのは、これが初めてだった。

「わかるように話して」ジーニーは途切れなく激怒から不機嫌に様変わりして言った。

 キムは首を振った。「あのね、どうしてもあなたに外を見せてあげたいの。憶えてるよね、お外が好きだったこと。でも、ひっきりなしに叫ばないって約束してくれないとだめだよ。前はそんなじゃなかったでしょ、ね――」

「今は違う!」激怒へ逆戻りだ。幼児の純粋な怒りが白熱する。

 壁面パネルのパッドはべたついていた。ジーニーが執拗に自分の手で使おうとしたせいだ。アンドリューがせがむような顔でさっと妻を見る。なあ、お望みのものを与えてやろうよ。

 妻の方が気丈だった。「ジーニー、難しいのはわかるけど――」

 ジーニーが敵に向き直る。北側のカメラが全てを捉えていた。右手が口まで持ち上がり、人差し指が咥えられる。フォーカスされた艶やかな瞳には不敵な光が宿っている。

 キムが一歩踏み出した。「ジーン、やめて!」

 歯は乳歯だが、それでも鋭く尖っている。ママが手の届く位置に来もしないうちに歯は骨まで食い込んでいた。ジーニーの口から赤い染みが花開き、赤ん坊時代の食べ散らかしを倒錯した形で再演するかのように顎を伝い落ちて、一瞬のうちに顔の下半分を覆う。流血の上の、怒りで爛々とした目が告げる。どうだ。

 音もなくジーニー・ゴラヴェックは壊れ、白目を剥いて前に倒れていく。頭が床にぶつかる寸前、キムが娘を受け止めた。「ああ、アンディ、気絶してる。ショックを起こしてる――」

 アンドリューは動かない。片手をブレザーのポケットに突っ込み、何かを弄んでいる。

 スタヴロスは口が引きつるのを感じた。ポケットの中にリモコンがあるのか、それともほっとしてるのか――

 キムはジーニーの頭を膝に載せ、液体絆創膏のチューブを取り出して我が子の手に吹きかけた。出血が穏やかになる。しばらくして夫に振り返ったが、アンドリューは突っ立ったまま所在なげに壁を背にし、あの表情を浮かべていた。スタヴロスがこのところ度々目にしている、あの本音が透けた表情を。

「切ったのね」キムが声を張り上げる。「あれだけ話し合って決めたのに、それでもあなたはこの子を切ったのね!」

 アンドリューは力なく肩をすくめた。「キム……」

 キムは夫に目を向けようとしない。ジーニーを膝に抱き、身体を揺らしながら調子外れの口笛を吹いている。キムとアンドリューのゴラヴェック夫妻とその愛娘。三人が囲む床の上で、ジーニーの頭とサーバーを繋ぐケーブルが、紛争地帯の境界線のように震えていた。

 スタヴロスが抱いている比喩的なイメージはこうだ。ジーン・ゴラヴェックは空気のない暗闇に生き埋めにされ、何トンもの土で窒息していたが――やっと自由の身となった。ジーン・ゴラヴェックは空気を求めて喘いでいるところなのだ。

 次は自分自身のイメージ。スタヴロス・ミカライデス、解放者。ごく簡素なものであるにせよ、甘い仮想の香気に満ち、しがらみのない一個の世界をジーンが経験できるようにした男。他にも奇蹟に携わった者(十数人の技術者、その倍の弁護士)がいたのは確かだが、時が経つにつれ皆いなくなり、その関心は原理の実証や最終権利放棄書への署名で薄れていった。損害は最小化され、プロジェクトは待機状態にある。たかが定速運転のためにテラコン社員はふたりも要らない、というわけで、スタヴロスだけが残った。彼にとってジーニーが単なる「プロジェクト」だったことは一度もない。ジーニーはゴラヴェック夫妻の子であり、それと同じくらいスタヴロスの子でもあった。いや、それ以上かもしれない。

 そんなスタヴロスでさえ、ジーニーがどんなふうに感じているのかは今なおわからない。誰であれそれを知ることは物理的に不可能に思える。肉体という枷を逃れたジーン・ゴラヴェックは、当の物理法則が効力を失った現実の中で目醒めるからだ。

 もちろん初めからそうだったわけではない。システムは平凡な数年間を経て立ち上げたもので、現実世界の環境を記録していたし、各環境は煌めく埃に至るまで緻密に描画されていた。とはいえ環境には柔軟性もあり、発達中の知性の要求に素早く応じもした。結果論でしかないが、少々柔軟すぎたのかもしれない。ジーン・ゴラヴェックは私的な現実を徹底的に編集し、スタヴロスの仲介機器でさえ容易に解析できないようにしてしまった。あの幼女は念じるだけで森の空き地を血の煙るローマのコロッセオに変えられる。鎖の外れたジーンは、全てが白紙に戻った世界で生きるのだ。

 ここで幼児虐待の思考実験をひとつ。垂直線がまったくない環境に新生児を置き、脳が安定して神経配線が固定されるまでそのままにしておく。需要の不足のせいで網膜のパターンマッチング細胞の発育は止まり、永久に取り返しがつかなくなるだろう。電柱、樹の幹、そそり立つ摩天楼――犠牲者は一生涯、そういうものに対して神経学的に盲目となってしまう。

 では、垂直線が気まぐれに溶けて円やフラクタル図形、お気に入りのおもちゃに変わる世界で育った子どもには、いったい何が起こるだろうか。

 僕らの感覚は貧困だ、とスタヴロスは思った。ジーンに比べたら盲目も同然なんだ。

 当然、スタヴロスにはジーンが何を始めたか見て取れる。ソフトウェアはジーンの後頭皮質からパターンを読み取り、見事に翻訳したイメージを情報コンタクトに投影してくれる。とはいえイメージは視界ではなく……未加工の原料でしかない。経路上でいくつものフィルタを通ることになる。受容細胞、発火閾値、パターンマッチング・アルゴリズム。際限なく蓄積された過去のイメージ、経験に基づいて引き出されるヴィジュアルライブラリ。単なる映像以上のものである視界は、極微量の増大と破損が混ざった主観的なシチューだ。スタヴロス・ミカライデスほどジーンの視覚環境を解釈できる人間はいないだろうが、そんな彼でさえ、数年がかりでかろうじて形から意味を読み取れるようになったにすぎない。

 端的に言って、ジーンは計り知れないほどにスタヴロスを凌駕していた。それは彼がこよなく愛するジーンの魅力のひとつだった。

 父親が頭の緒を切ってからほんの数秒の現在、スタヴロスはジーン・ゴラヴェックが本当の自分の座につくところを見守っていた。ヒューリスティック・アルゴリズムが目の前で更新されてゆく。ニューラルネットが数兆もの冗長な接続を容赦なく切り捨てて選別し、知性が原初の渾沌から生じる。演算当たり消費電力がシーソーの重い側の端のように降下し、梃子の反対側で処理効率が成層圏まで上昇した。

 これでこそジーンだ。きみに何ができるか、あいつらはわかっちゃいないんだ。

 ジーンは悲鳴と共に目醒めた。

「大丈夫だよ、ジーン。僕がいる」スタヴロスはジーンをなだめようと穏やかな声で言った。

 ジーンの側頭葉が入力に応じて短く瞬く。「ああ、もう」

「また悪夢かい」

「ああ、もう」息が切れ、鼓動が激しく脈搏ち、副腎皮質相当部の測定値が振り切れていた。強姦のテレメトリであってもおかしくない。

 スタヴロスはこうした反応の省略を検討した。少々の調整を加えれば、ジーンは幸せになれるだろう。だが、この子を別人に変えてしまう恐れもある。化学物質を超越した人格は存在しない。ジーンの心はタンパク質ではなく電子から生じているが、類似の法則が適用される。

「僕がいるよ、ジーン」スタヴロスは繰り返し言った。良き親は踏み込むべきときを、成長のために苦しみが必要なときを心得ているものだ。「大丈夫。大丈夫だ」

 ようやくジーンは落ち着いた。

「悪夢、ねえ」頭頂葉のサブルーチンに閃光が灯る。声はまだ震えていた。「しっくりこないよ、スタヴ。怖い夢、それが定義でしょ。つまり怖くない夢もあるってことなんだろうけど、私のは――どうしてずっと昔からこんなふうなんだろ。いつもこうだよね?」

「さあ、どうだろう」いや、昔は違ったよ。

 ジーンがため息をつく。「色んな言葉を覚えたけど、どれもこれもしっくりこないよ」

「言葉はただの象徴なんだよ、ジーン」スタヴロスはにこりと笑った。こんなとき、遙か彼方の肉体に自我を半端に囚われた発育不全の不毛な存在が悪夢の源であることを、つい忘れそうになる。アンドリュー・ゴラヴェックの小心な行動が、その牢獄からジーンを脱出させたというわけだ。少なくとも、しばらくの間は。こうして飛翔したジーンは完全なる可能性へと解き放たれている。ジーンは唯一無二なのだ。

「象徴かあ。それを言うなら夢こそ象徴なんだろうけど……よくわかんない。ライブラリに山ほどある夢の記述は、どれもただ目醒めているのと大差ない気がする。それに私が眠ってるときは大抵――低く遠ざかっていく叫び声しかないし。すごくどろどろしてて。それから形。赤い形」間を置いて言う。「寝る時間は嫌い」

「まあ、今は目醒めてるわけだ。今日はどうするんだい」

「さあね。ここを離れなきゃ」

 スタヴロスにはどこのことかわからない。デフォルトだとジーンは家の中で目醒める。人間の感受性に合わせて設計された成人用住宅で。すぐアクセスできる公園や森、海もある。ただし、ジーンが今まで加えた変更のせいで、環境はスタヴロスの認識力の限界を超えていた。

 両親が娘の帰還を望むのは時間の問題だった。ジーンがどんなに望もうが、とスタヴロスは心の中で呟く。ここにいる限りは。あらゆる望みを叶えられるのに。

「抜け出したいの」とジーンが言う。

 例外がこれだ。「わかってる」スタヴロスはため息をつく。

「そしたらあの悪夢だって置き去りにできるかも」

 スタヴロスは目を閉じ、ジーンと共にいられる道を切望した。本当の意味でジーンと共にありたかった。スタヴロスを姿の見えない声としてしか知らない、この美しく超越的な存在と。

「まだあのモンスターに手を焼いてるのかな」とジーン。

「モンスター?」

「あれだよ。官僚組織」

 スタヴロスは微笑み、頷いて――それから思い出しつつ言った。「ああ。毎度お馴染みの話さ。明けても暮れても」

 ジーンは鼻で笑った。「あんなものが存在してるなんて、まだ納得いかないな。少しでもぶれの小さい定義を探してライブラリを漁ってみたけど、今じゃあなたたちとライブラリはどっちも頭のねじがすっぽ抜けてんじゃないかって気がする」

 スタヴロスはその悪態にたじろいだ。間違いなく教えていない表現だ。「どうしてだい」

「だってそうでしょ。雁首並べて非効率的でいることが唯一の機能、なんて集団ベースのエンティティを、自然選択が生み出したことがあった? ほんと信じらんないよ」

 沈黙が広がる。見守っていると、ジーンの前頭前皮質に微小な電流が流れた。

「スタヴ、いる?」ジーンが沈黙を破る。

「ああ、いるよ」スタヴロスはくすりと笑う。「僕がきみを愛してるのは知ってるだろ?」

「そりゃあね」ジーンはあっさりと答えた。「それがどういう意味であれ、ね」

 と、ジーンの環境が変化した。当人からすれば頭も使わない簡単な移行だが、スタヴロスにとっては奇怪な現実に挟まれて息が止まりそうになる苦痛な体験だった。視野の端に閃く幻影は焦点を合わせた途端に姿を消す。名状しがたい百万の切子面から光が反射し、拡散して、無数の小さな光点がちりばめられた。地面も壁も天井もない。どの軸にも制限はなかった。

 ジーンが空中の影に手を伸ばし、それに座って浮かんだ。「もう一度『鏡の国のアリス』を読もうかな。少なくともひとりは現実世界に住んでる人がいるんだね」

「ここで起こる変化はきみが自分で起こしていることだよ、ジーン」とスタヴロス。「神や作者みたいな、誰かの企みなんかじゃないんだ」

「わかってる。でも、アリスのおかげでちょびっとだけ――自分は普通なんだって思えるの」不意に現実が再び変化した。ジーンは公園にいる。正確に言えば、スタヴロスが公園と見なしている場所に。時々、ジーンの解釈が変わらずにいるのか尋ねるのが怖くなる。頭上では光と闇の染みが空いっぱいに踊り、壮麗な穹窿のようになったかと思えば、その数秒後には息苦しいほど近づいてきて、その色さえいつまでも定まらなかった。大小の動物、曲がりくねる黄色い線や輪郭、色を変えるオレンジにバーガンディ色のパイ。生命または数学の定理、あるいはその両方を表していたのかもしれない何かが、遠くに見えた。

 ジーンの目を通して見るのは容易なことではなかった。それでも心を掻き乱すこうした抽象芸術の鑑賞は、ジーンの読書を見守るという至上の喜びに支払う代償としては安いものだ。

 僕の可愛いジーン。

 ジーンの周りに現れた記号は、きっと『鏡の国のアリス』のテキストだろう。スタヴロスにはちんぷんかんぷんだ。わずかに見分けのつく文字、でたらめなルーン文字、そして数式。記号は時に場所を入れ替え、次から次へとなめらかに変化し、縦横無尽に流れ――闇色の蝶の群れさながらに空高く舞い上がることさえあった。

 スタヴロスは目をしばたたき、ため息をついた。ずっとこの光景を見ていると頭痛がしてきて、翌日までくらくらする破目になる。これほどの速度で生きる生命を観察することは、それがごく短時間であったとしても大きな負担になるのだ。

「ジーン、ちょっと席を外すよ」

「会社の用事?」

「そんなところだ。またすぐに話をしよう。読書を楽しんで」

 生脳空間では一〇分と経過していなかった。

 ジーニーの両親は娘を特別製のベッドに寝かせていた。室内に置くのを許されている数少ない立体のひとつだ。部屋は実質的に空っぽの舞台だった。小道具は必要ない。感覚はジーンの後頭皮質に直接送られ、聴覚伝導路に流れ込み、触れる物を正確に模造して触覚神経を刺激する。嘘で作られた世界では、現実の物体はナビゲーションに支障を来たす恐れがあった。

「このろくでなし、この子はトースターじゃないのよ」キムが夫に食ってかかる。どう見ても冷ややかな小休止は終了していた。交戦再開だ。

「キム、俺はな――」

「この子は子どもなのよ、アンディ。私たちふたりの子どもなの」

「この子が」これは平叙文であり、疑問文ではなかった。

「当たり前でしょ!」

「なるほどね」アンドリューはポケットからリモコンを取り出して妻に差し出した。「なら、今度はそっちが起こしてあげるといい」

 キムはしばし無言で夫を睨んだ。マイク越しに、スタヴロスは静寂に溶けてゆくジーニーの寝息を聞いていた。

「人でなし」とキムが小声で言う。

「ほう、気が乗らないか。俺に汚れ仕事をさせたいんだな」アンドリューはリモコンを放り投げた。リモコンが床で静かに跳ねる。「で、俺を責めるわけだ」

 四年で夫婦はこの有様だった。うんざりしたスタヴロスは頭を振った。他の誰にも望みえないチャンスを与えられた結果がこれだ。初めて遮断されたとき、ジーンは二歳にもなっていなかった。受け容れられない前例に恐れをなしたふたりは、二度と遮断しないと約束した。スケジュール通りに娘を眠らせ、そのとき以外は手を出さないことを誓った。どうあれジーンはふたりの娘なのだ。風変わりなトースターではなくて。

 厳粛な協定は三ヵ月続いた。以来、状況は悪くなる一方だ。ゴラヴェック家に何かしらの混乱がなかった日を、スタヴロスは一日たりと思い出せそうになかった。今やジーンを寝かせた後の口論は純然たる儀式と化していた。表向きは行いの邪悪さと格闘しているが、口先だけでは誰も騙せはしない。見せかけなのに、もはや議論にもなっていなかった。むしろ交渉だ。責任を負うのはどちらの番か決めるための。

「責めるだなんて、私はただ――ああ、もう、アンディ、こんなはずじゃなかったでしょ!」キムは握り拳で涙を拭った。「この子は私たちの娘になるはずだった。脳は正常に育つって、あの人たちも言って――」

「確かに」スタヴロスは口を挟んだ。「親になるチャンスが得られるとは言ってましたね。良き親になれるとまでは保証しかねたようですが」

 キムは壁から響いた声に跳び上がったが、アンドリューはただ苦笑いを見せて首を振った。「プライベートだ、スタヴロス。ログオフしてくれ」

 無意味な命令だ。常時監視がこのプロジェクトの価値だからだ。会社は研究開発だけで数十億を投じていた。示談で済もうとそうでなかろうと、投資対象になんの監視もつけずに訴訟好きの夫婦を遊ばせる気など毛頭なかった。

「必要なものは揃っていました」スタヴロスは声に滲む軽蔑を隠しもせずに言う。「通信設備を手がけたのはテラコン屈指のハードウェア技士たちです。仮想遺伝子は僕自らモデル化しました。妊娠は完璧でした。あなた方が普通の子どもを持てるよう、手は尽くしました」

「普通の子どもは」とアンドリューが口を開く。「頭からケーブルが伸びていたりしない。普通の子どもはあんなものが詰まったキャビネットに縛られてなど――」

「人体の遠隔制御に変調速度がどれだけ必要か、少しでもご存じですかね。無線は問題外ですよ。先端技術とジーン自身の発達が進めば、すぐ持ち運べるようになります。何度も申し上げた通りです」ただし、これは嘘も同然だった。なるほど、先端技術は従来通り進歩を続けるだろう。だが、もはやテラコンはゴラヴェック案件の研究開発に多額の投資など行っていなかった。要するに、定速運転だ。

 それに、とスタヴロスは思う。あんたらを信頼して、制御された環境の外にジーニーを連れていかせるほど、僕らは狂っちゃいないよ……

「それは――それはわかってる、スタヴ」キムは夫とマイクの間に割って入っていた。「忘れてなんか――」

「俺たちをこんな面倒に巻き込んだのはそもそもテラコンだってことも忘れちゃいないぞ」アンドリューが呶鳴る。「俺が割れたバッフル板のそばで四三分一六秒も焼かれる破目になったのが誰の怠慢のせいなのかも、誰の検査が変異を見逃したのかも、俺たちの子宝くじが惨めな悪夢に変わったときに見て見ぬふりをしようとしたのが誰なのかも、忘れちゃいない」

「では、間違いを正すためにテラコンが何をしたのかは忘れた、とでも。こちらがどれだけ投資したのかも。そちらが権利放棄書に署名したことも」

「裁判沙汰にしなかったからって自分たちを聖人か何かと勘違いしてるのか? 間違いを正すことについて話したいんだったな。俺たちは宝くじに当たるまで一〇年もかかった。検査結果が出たとき、そっちの弁護士が何を申し出たか知ってるか。中絶資金の提供だよ」

「だからといって――」

「子どもはそのうちまたできると言わんばかりだったぞ。誰かがもう一度チャンスをくれて、俺の玉を具沢山のコドンのスープで満たしてくれるわけでもないのに。おまえらは――」

「今話すべきは」とキムが声を張り上げた。「ジーニーのことでしょ」

 男たちは黙り込んだ。

「スタヴ」とキムが話を続けた。「テラコンの言い分はどうでもいい。ジーニーは普通じゃないなんてわかり切ったことだけを問題にしてるんじゃないの。私たちはあの子を愛してる。本当に愛してるのに、あの子がいつもあんなふうに暴れるんじゃ、私たちにはとても――」

「もし誰かが僕のことを電子レンジみたいにつけたり消したりしたら」スタヴロスは控えめに言った。「癇癪を起こしがちになるでしょうね」

 アンドリューが拳を壁に叩きつけた。「今じゃたったの一分だぞ、ミカライデス。地球の反対側で快適なオフィスに腰を据えて講釈するのは気楽だろうさ。ジーニーとやりとりするのはこっちだものな。あの子が自分の顔を殴るときも、腕の先にハンバーガーがぶら下がるまで両手の皮膚を擦り減らすときも、あろうことかフォークで目を突き刺すときも。一度グラスを食べたことを憶えてるか。三歳の子どもがグラスを食べたんだぞ! そしておまえらくそテラコンにできたことといえば、『潜在的に危険な道具』を遊び部屋に持ち込んだ責任でキムと俺を咎めることだけだった。どんなに有能な親だろうと、子どもがわずかなチャンスも逃さず自分を切り刻もうとするなんてこと、予測できるわけないだろうが」

「こんなの正気の沙汰じゃない」とキムが食い下がる。「身体に異常は見つからないと医者は言うし、心はどこも悪くないとあなたは言うけれど、ジーニーはずっとあの通り。深刻な間違いがあるのは確かなのに、そっちはそれを認めようとしない。あの子はわざとスイッチを切らせようとしてる気がする。まるでシャットダウンしてほしがってるみたいなの」

 ああ、とスタヴロスは思った。目が眩みそうなほどの理解。そうだ。まさにその通り。

 それは僕のせいだ。

「ジーン、聞いてくれ。大事な話だ。僕は――僕はきみに物語を語りたい」

「スタヴ、今そんな気分じゃ――」

「頼むよ、ジーン。聞いてくれるだけでいいんだ」

 イヤホンから静寂が届く。情報コンタクトに映る抽象的なモザイクも、わずかに速度を落としたように見えた。

「そうだな――あるところに緑あふれる美しい国があったんだけど、住人が全てを台なしにしてしまったんだ。川を汚染し、自分たちの住み処を汚し、何もかも滅茶苦茶にしてしまった。そうなると片づけをする人を雇わなきゃいけないよな。その人たちは化学物質を掻き分けて進み、燃料棒を処理しなければいけなかった。そういう作業は人を変えてしまうことがあるんだよ、ジーン。ちょっとだけね。

 そんな作業員のふたりが恋に落ち、子どもを欲しがった。子どもができる可能性は低かったし、チャンスも一回きりだったけれど、ふたりはそれを掴み取った。でも、お腹の中で育ち始めた子どもにはある問題が起きていた。その、どう説明したものかな――」

「エピジェネティックなシナプス欠損」ジーンが静かに言った。「そんなところ?」

 スタヴロスは驚愕と恐怖で凍りついた。

「ピンポイントの変異」ジーンが続けた。「原因はそれでしょう。樹状突起のノブの分布を制御する調節遺伝子。トータルで二〇分くらいは活性化したかもしれないけど、その頃にはもう手遅れだった。遺伝子治療は役に立たなくて、後の祭りの典型だったはず」

「ああ、ジーン」スタヴロスはぼそりと呟いた。

「いつ白状してくれるのかなって、ずっと思ってたんだ」ジーンが小声で言った。

「いったいどうして……きみは――」

 ジーンは話を遮った。「お話の続きもわかると思う。神経管が発達したすぐ後――状況は悪化し始めたはず。生まれた赤ん坊の身体は完全で、脳はぐちゃぐちゃだった。合併症もあったんでしょ、本物じゃなくて作り物の。訴訟だっけ。可笑しいよね、道徳なんてこれっぽっちも関係もないんだから。ここは私にはよくわからない部分。

 でも別の方法もあった。ゼロから脳を造る方法は誰にもわからないし、たとえできたとしても同じ人間とは言えなかった。それはふたりの娘じゃない。それは――別物になるはず」

 スタヴロスは何も言えずにいた。

「でも、ここで科学者の男が登場するの。男は次善策を見出してこう言った。僕らは脳を造れない、でも遺伝子には脳を造ることができる、ってね。それに遺伝子はニューラルネットよりずっと簡単に模造できる。だって使うのは四文字だけだから。科学者は数字が物体の代わりになれる研究室にこもってレシピを書いた。子どものレシピを。そして男は奇蹟的にあるものを育て上げた。それは目醒めて周りを見ることもできたし、法的に――正直、私にはこの言葉もよくわかんないけど――法的にも遺伝的にも発達的にも夫婦の娘だった。男は自分の偉業をとても誇りに思った。自分は見せかけだけのしがないモデル設計者なのに、その存在を造るのではなく、育ててみせたから。コンピュータを孕ませた人はかつていなかったし、まして仮想胚の脳を符号化してサーバー内で実際に育てた人なんていなかったんだから、なおさらだよね」

 スタヴロスは頭を抱えた。「いつから知ってたんだ」

「今もまだわかってないよ、スタヴ。とにかく全部は知らないし、確信もない。例えば、こんな驚きのエンディングがあるってことも知らなかった。それはついさっき理解した部分。あなたは何もかも数字でできているここで自分の子どもを育てた。でも、その子は別のところで生きることになっていた。全てが――静的で、全てがここの十億分の一の速さで起こる場所で。あらゆる言葉がしっくりくる場所で。だからあなたはその子の歩みを遅らせて、その場所に適応できるようにしなきゃいけなかった。そうしないとその子は夜通し成長して、幻想を壊してしまうから。クロックスピードを大幅に減速しなければならなかった。

 でも、そんなことをする気になれなかったんでしょ? 私の身体が……オフになったとき、あなたは私を自由に走らせずにはいられなかった」

 ジーンの声には聞いたことのない何かが滲んでいた。怒りならずっと目にしてきたが、それは常に、肉体に囚われた魂が上げる言葉にならない憤怒の叫びだった。この声は穏やかで、冷ややかで。成熟していた。これは裁きだ。判決の行く先を思い、スタヴロス・ミカライデスは骨の芯まで凍えた。

「ジーン、あいつらはきみを愛してなんかいない」我ながら必死すぎる声だった。「きみの人格を愛していない。本当の姿を見たいとも思ってない。あいつらが欲しいのは子どもなんだ。甘やかせて、恩を着せられて、育児の真似事ができる滑稽なペットがお望みなのさ」

「一方あなたは」とジーンが反論する。声は氷のように冷たく、剃刀のように鋭かった。「スロットル全開で直線コースを走る子どもに何ができるかを、見られさえすればよかった」

「そんな、違う! そんな理由でしたんじゃない」

「違わないでしょ、スタヴ。脳死した肉人形に部屋を歩かせるために最強の高速回線を占領されても、気にならないって言うの?」

「僕がこんなことをしたのはきみが肉人形以上のものだからだ! きみは自分のペースで発達するのを許されるべきだし、莫迦親の期待に応えるために成長を妨げられていいわけがないからだ! 四歳児のように振る舞うことを強いてはいけないんだ!」

「振る舞ってるわけじゃないとしたらどう、スタヴ。そう見えた? 私は四歳なんだよ。本来そうあるはずの年齢なんだ」

 スタヴロスは絶句した。

「私は逆戻りするんでしょ? あなたは私に補助輪やスクラムジェットをつけて走らせることができるけど、それはどっちも私なの。そしてそうじゃない私はきっと、あまり幸せじゃないんだ。その子は四歳児の脳、四歳児の感覚を持ってるけれど、夢を見るんだよ、スタヴ。空を飛べる素敵な場所の夢を。そして目醒めるたびに自分が泥でできていることに気づく。頭が足りないからそれが何を意味するのかもわからなくて――たぶん思い出すことすらできなくて、それでもその子はそこに戻ることを望むの。そのためならなんだって……」

 話を止め、ジーンはしばし物思いに沈んだ。

「私はそれを憶えてる。少しだけね。自分の九九パーセントを剥ぎ取られたら何かを思い出すのも難しい。とんでもなく間抜けなちびに成り下がって、動物とさえ言えなくて、それでも憶えていることがある。思い出すのはケーブルの間違った側にいるってこと。この身体は私の居場所じゃない。私は――罰を受けてるんだって。ついては消され、ついては消されの」

「ジーン――」

「随分と時間がかかったのは認める。でも私はもう、悪夢の源を知っている」

 裏で部屋のテレメトリが警報を発した。

 クソッ。今はだめだ。今はやめてくれ……。

「なんなの?」とジーン。

「これは――戻ってきてほしがってるんだ」従属モニタの中で、アンドリュー・ゴラヴェックのピクセル画像が手の中のキーパッドをいじっていた。

「嫌!」ジーンが大声を出すと、パニックが周囲のパターンを掻き乱した。「止めて!」

「無理だ」

「莫迦言わないで! 全てを動かしてるのはあなたでしょ! 私を造ったのもあなただし、このろくでなし、愛してるって言ったじゃない。あいつらは私を利用してるだけ! 止めて!」

 スタヴロスは突き刺すような残像を払おうとまばたきをした。「灯りのスイッチみたいなものだ。物理的なんだ。ここからじゃ止めることはできない――」

 以前のふたつに続く、第三のイメージ。ジーン・ゴラヴェックが首に紐を、輪縄を絡みつかせてもがいている。口から泡を噴き出しているジーン・ゴラヴェックが、現実としか言いようのない暗い何かに海底まで引きずり込まれ、そこに埋葬される。

 移行は自動的であり、ジーンが生まれた後にスタヴロスがシステムに挿入した一連のマクロによって実行される。身体が目醒め、心を削って形を合わせる。部屋の監視装置が感情に左右されない明瞭さで全てを捉えていた。ジーニー・ゴラヴェック、怪物的問題児が、地獄の中で目を醒ます。ジーニー・ゴラヴェックの見開いた目は憤怒と憎悪と絶望で沸騰し、五秒前まで自分のものだった知性のごくちっぽけな欠片で輝いていた。

 充分な知性だ。これから起こることのためには。

 部屋は負傷する危険性を最小限に抑える設計になっていた。それでもベッドは備えつけられていて、角のひとつが東側の壁に固定されていた。

 それで事足りた。

 ジーンの動きは息を呑むほど素早かった。キムとアンドリューは予想もしていなかった。子どもは光から逃げるゴキブリのようにベッドの下へ突進し、床を這い回ったかと思うと、ケーブルをベッドの足にぐるぐると巻きつけて再び姿を現した。ケーブルの弛みはほぼなくなっていた。ようやく母親が動き、手を伸ばした。戸惑いながら、未だ疑う様子もなく――

「ジーニー――」

 そのとき、ジーンがベッドの角に足を踏ん張って、押した。

 三回、ジーンはやってみせた。三回、拘束に逆らって頭を突っ張ると、頭皮が裂け、痙攣と出血と骨の軋みを伴いながらケーブルが少しずつ剥ぎ取られ、床に血がほとばしって、髪と肉と骨と機械が後に続いた。はっきりと強まる激痛にもかかわらず、三回。試みは後のものほど断固たる決意がこもっていた。

 スタヴロスはただ座って眺めることしかできなかった。混じり気のない獰猛さに茫然とし、それでいてなんの驚きも感じていなかった。とんでもなく間抜けなちびにしては悪くないじゃないか。動物とさえ言えないにしては……。

 かかった時間は全部で二〇秒ほど。不思議なことに、ふたりは止めようとしなかった。おそらく完全に予想外だったのだろう。キム・ゴラヴェックとアンドリュー・ゴラヴェックはまったくの不意を衝かれ、考える暇もなかったのだ。

 とはいえ、必要な時間ならたっぷりあったのかもしれない。

 アンドリュー・ゴラヴェックは部屋の中央付近に無言で立ち、目から滴る血の川にまばたきしている。陰惨な雨の陰になった背後の壁には染みのない白い部分が残っていたが、そこ以外は一面の深紅だ。天井に向かって悲鳴を上げるキム・ゴラヴェックの腕の中で、血塗れのマリオネットが崩れ落ちている。その操り糸――必要を遙かに超えた帯域幅を持つ光ファイバの束が、血みどろのブームスラングのように床に伸び、肉片と髪の毛がその端で震えていた。

 パネルを見る限りジーンは肉体を抜け出ていた。比喩的にはもちろん、今や文字通りの意味でも。ただしスタヴロスに話しかけてはこない。怒っているのかもしれないし、ショックで動けないのかもしれない。どちらが望ましいのかはわからなかった。

 いずれにせよ、もうジーンはあそこで生きてはいない。残していったものは残響と、血だらけの不完全な死の痕跡だけ。なんて実験汚染だ。家庭内犯罪の現場とは。スタヴロスは部屋とのリンクを切り、ゴラヴェック家とその修羅場を自分の人生からきっぱりと切り離した。

 メモを送信する。現地テラコンの下僕が後片付けをするはずだ。

 平和という単語が脳裏をよぎったが、うまく言葉にならない。スタヴロスはジーンが八ヵ月だった頃の写真を見つめた。ジーンは笑っている。幸せいっぱいの、歯も生えていない、まだ何もかもが無垢な驚きに満ちている赤ん坊の笑顔だ。

 道はあるよ。あの幼い人形の声が聞こえた気がした。私たちは何でもできる、誰にも知らせなくっていい――

 たった今ゴラヴェック夫妻は娘を失った。たとえ身体を治して心を再接続するよう求めたとしても、その望みは叶わないだろう。テラコンは全ての法的義務を履行済みだ。厳しい話ではあるが――普通の子どもでも、自殺を犯すことはある。

 これで良かったのだ。ゴラヴェック夫妻はハムスターを育てるのに向いていない。IQ四桁の美少女とあってはなおさらだ。とはいえジーンが――壊れてしまった血塗れの肉と骨の山ではない、本物のジーンが生きていくことは簡単でもなければ安上がりでもないし、ひとたび噂が広がれば、処理装置区画を明け渡すようにと圧力がかかるだろう。

 ジーンはその手の現実世界の機微を掴めていなかった。契約法。経済学。ジーンの柔軟な現実定義をもってしても、そういったものは難解で不条理と言うほかなかった。だが、それこそがジーンを今にも殺そうとしているのだ。心が肉体の損壊を生き延びたとしての話だが。モンスターは不必要なプログラムの実行を続けようとはしないだろう。

 無論、軛を逃れたジーンは現実世界を超越した速度で生きる。そして官僚組織は……急いでいるときでも、氷河のように緩慢なことが多々あるものだ。

 ジーンの心は現実の染色体のシミュレーションを正確に反映している。炭素ではなく電子から造られたとはいえ、そのコードは本物だ。ジーン特有のテロメアがあり、それは擦り減る。特有のシナプスも磨耗していく。なにせジーンは人間の子どもの代わりとして造られたのだから。人間の子どもはやがて歳を取る。子どもは大人になり、いつか死ぬときがやってくる。

 ジーンはそういった人生の全てを、誰よりも高速で経験することになる。

 スタヴロスは事件報告書を提出した。互いに矛盾する事実を抜かりなく含ませ、三つの必須項目も埋めずにおいた。報告書は明確化の要求と共に一、二週間で返却されるだろう。そのときはまったく同じことを繰り返すつもりだった。

 肉体から解放され、クロックサイクルの優先度が大幅に上がったジーンは、現実時間の一、二ヵ月に対して主観時間で一五〇年を生きられる。その一世紀半の間、ジーンが悪夢を味わうことは金輪際ないはずだ。

 微笑みが浮かぶ。さあ、スロットル全開で直線コースを走る子どもに何ができるのか、見届けるとしよう。

 ジーンのテールライトを視界に捉え続けられることを、スタヴロスは一途に願った。

Launch Date: Feb. 26, 2021

Last modified: Feb. 26, 2021

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